日本代表の指揮を執っていたパブリセヴィッチ監督。写真:アフロスポーツ

 圧倒的な結果を出す人は、小さなきっかけを大きな成長への礎にするのがうまい。

 例えば、日本バスケットボール界のレジェンドと言われる折茂武彦は、ひとつの「言葉」をそれにした。

 現役27年49歳までプレー(しかもその間、チームの立ち上げ、代表取締役社長を兼任した)、日本人選手最多の1万238得点を記録した男が「あの時がなければ、これだけ長くプレーできなかった」と振り返る、言葉とは。

 8月21日に行われるトークイベントの前に折茂の著書『99%が後悔でも。』で語った秘話を紹介する。

噓をついたヘッドコーチ

 ジェリコ・パブリセヴィッチ。

 旧ユーゴスラビア出身の彼が日本にやってきたのは2003年のことだった。わたしがトヨタ自動車に在籍していて、33歳を迎える年だ。

 ジェリコは、NBA史上もっとも有名なチーム、1990年代のシカゴ・ブルズを支えたトニー・クーコッチらを育てた名将だった。そんな彼が、日本代表のヘッドコーチとして来日したのである。

 彼が来たとき、わたしの頭の中に「日本代表」はすでに存在していなかった。

 十年近くプレーをしてきたし、若い選手も出てきていた。アジアでも難敵・中国に歯が立たず、世界と戦うためには若返りが必要な時期でもある。彼が来日する前年、32歳のとき、わたしは代表を辞退していた。

 そんなわたしに、ジェリコが「日本代表に来てほしい」と言ったのは、2006年(つまり、わたしが「北海道」に行く前年)のことである。この年、日本で世界選手権が行なわれる予定だった。