折茂武彦(おりも・たけひこ)B.LEAGUE(B1)レバンガ北海道の代表取締役社長。1993年にトヨタ自動車(現アルバルク東京)でキャリアをスタートし、2007年にレラカムイ北海道へ移籍、その後経営難によりチーム消滅。2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を務める。2019−20シーズンで引退した。190センチ77キロ(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 社長を兼任しながら49歳まで現役選手を続行した、レバンガ北海道の折茂武彦。本企画では、初の著書『99%が後悔でも。』を起点に、北海道のバスケットボール文化向上に身を捧げる折茂の半生やマインドを全5回で掲載する。

 第4回は、所属チームの消滅、そして、前代未聞の「選手兼社長」として経験した苦労を語ってもらった。

(青木 美帆:スポーツライター)

不眠、過呼吸、それでもバスケが楽しかった

──2011年1月、レラカムイ北海道は虚偽の決算報告により、当時所属していたJBLから除名処分を受けます。選手として、このような事態になる予感はすでにありましたか?

 かなりありましたね。その時にはすでに給料未払いが発生していましたし(※1)、正月に開催される天皇杯も「お金がないから参加できない」と言われたので、かなり厳しいんだろうなと。ただ、言葉が悪いかもしれませんが、そのような事態になっていたにも関わらず、なんとなく他人事のような感覚だったかもしれません。

※1月末になると若い選手を中心に、「給料、入った?」と確認し合うのが常となっていた。その姿は、見ていられないものだ。(中略)わたしや蓄えのあるほかの年配者──例えば、山田大治らが食事に連れて行き、なんとか彼らの生活を支えようとした。「訴える」「試合をボイコットしよう」そんな声も大きくなっていった。(『99%が後悔でも 第2章 勝者のメンタリティ より)

──それはなぜだったのでしょうか?

 企業チームにいたころは給料が未払いになったことなんて一度もなかったですし、「チームがなくなる」ということを本当の意味で理解できていなかったのだと思います。ですから、天皇杯を終えたあと、チームが消滅するということを知らされたときも、ショックですらなかったというか、「ああ、そうなんだ」というくらいの感覚。他の選手たちも、なんだかぽかーんとした表情をしていて、ことの重大さが理解できていないような印象でした。

──チームがなくなるという大きな出来事から、経営者としてどのようなことを学ばれましたか?

 そうですね……選手がどのような状況をストレスを感じるかを、身を持って理解できたことは大きかったと思います。なので、私が経営者に就任した時は、まず「とにかく給料未払いだけはあってならない」と心に銘じました。また、練習や移動などの環境面の整備も、少しずつでもいいから常に前進させようと。自分が元選手ということもあり、当初は経営面より選手たちのケアに力を注いでいたかもしれません。

──競技のトップカテゴリーに所属しながら、選手とクラブ社長を兼任する──(※2)。この前例のないチャレンジに挑まれる際、ロールモデルにされた方はいらっしゃいましたか?

 いえ、いませんでした。経営を担うということを軽く捉えていたといいますか、「何とかなるんじゃないくらいか」くらいの気持ちだったんでしょうね。まあ、実際やり始めたら、まったく何ともならなかったんですけど(笑)。すぐに壁に当たって、「俺は本当に何にもわかってなかったんだな」と思い知らされました。なんせ、社長業どころか、誰かに頭を下げることや名刺を渡すことすら初めてだったわけですから。

 プレータイムが減ったり、給料が未払いになったり、チームがなくなったり、キャリアの中でいろんな経験をしてきましたが、心が折れることはそうそうありませんでした。ただ、スポンサー営業に足を運び出した当初は、もう真っ二つでしたね。もう逃げ出してしまいたいと思うくらいにきつかった。練習以外の時間がすべて社業になり、自分の時間をまったく持てなくなったのもつらかったです。

※2移籍も選択肢にはあった。引き合いもないわけではなかった。しかし、「北海道で最後を迎えたい」という思いを上回るものではなかった。(中略)引退も考えた。そういう年齢だ・だが、こんな終わり方では美しくない。(中略)そんな中、長さんが冗談半分に切り出した。「選手がやっちゃいけないっていう規約はない」。思い返せば、これが決め手だった。「じゃあ、やっちゃいますか」(『99%が後悔でも』第3章 必要とするより、されろ より)

──著書の中では、当時の壮絶な日々を赤裸々に綴られています(※3)。不眠に悩まれたエピソードもありました。

 目をつぶればいろんなことを考えちゃいますし、考え出すと眠れなくなっちゃいますし。社長になるまでは10時間寝ないとダメっていうくらいよく寝ていたんですけど、当時は1、2時間寝たら目が覚めてしまっていました。それを繰り返しているうちに「また朝だ。営業に行かないと…」と。憂鬱な気持ちでしたね。

※3会社立ち上げ当時の3カ月は、記憶が断片的になっている。(中略)とにかくひとりになりたかったこと。電話が鳴るのが怖くて布団を頭からかぶったこと。それでも着信音が聞こえてくると、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥っていた。(中略)食事も喉を通らなくなったこと。体重は、数ヶ月前より8キロほど減っていた。初めての過呼吸も経験した。(『99%が後悔でも』第3章 必要とするより、されろ より)

──選手としてのコンディションにも大きな影響があったのではないですか?

 いや、それがまったくなかったんです。むしろレバンガ1年目はけっこう数字も残せていました。

──それは驚きました。なぜだったのでしょう?

 なんでなんですかね……。たぶん、会社のことがストレスすぎて、バスケットをやっている時間がそれまで以上に楽しかったんだと思います。

 バスケットをやっているときだけは、いろんなことを忘れることができたし、一切のつらいことから解放されていたんだと思います。

(写真:アフロスポーツ)

──経営者として、数字的な目標は掲げられていましたか?

 いえ、そういったことに明るい方にお任せしていました。今はもちろん違いますが、当初は売上がどれだけ必要とか、各所の予算をどれくらいに設定しようとか、そんなこともわからないまま必死に営業に回っていました。

──なかなか衝撃的なお話です…。

 自分でもそう思います(笑)。経営者になると言った時、いろんな方から「無謀だ」と言われましたが、そう言われている意味すらわからず、「なんとかなる」と思っていましたから。今は笑えますけど、当時を思うとまったく笑えませんね。

(第5回に続く)