(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)
本連載では、戦前最大の企業グループ三井財閥の歴史を追っています。前回は明治後期以降、三井グループが外部企業を傘下に収め、本格的に事業を多角化して「財閥」と化していく過程を追いました。最終回の今回は、大正から昭和にかけて財閥として最盛期を迎えた三井グループを襲ったテロ事件、そして戦後に待ち受けていたGHQによる解体と、その後の再結集に至るまでの過程を取り上げます。
三井グループの持株会社を設立
明治も終わりに近づいた1907年、三井グループの実質的指導者であり、三井物産の創業者に当たる益田孝(ますだ・たかし、1848~1938年)は、英国でロスチャイルド家を訪問しました。この時面会したロスチャイルド家の当主は、益田に対し、三井グループの法人形態が無限責任会社であることが問題だと指摘し、有限責任会社に改組するようアドバイスしたとされます。
このアドバイスを受けた益田は帰国すると、三井グループの再編に早速取り組みます。
まず三井家一族が社員となる「三井合名会社」を設立させると、同社に「三井御三家」である三井銀行、三井物産、三井鉱山の株式を取得させ、その支配下に組み込ませました。これは現代で言う持株会社ことホールディングスカンパニーの形態です。ピラミッド型の組織形態にするとともに、企業の所有と経営を分割するという手法でした。
このグループ再編の結果、三井家一族は企業経営の現場から遠ざかることとなりましたが、資産の保全性は高められることとなりました。一方、各事業法人は経営者の意向が反映されやすくなり、企業の経営と所有の分割が進む形となりました。
こうした企業統治手法は当時の日本においては非常に先駆的であり、他の財閥にも波及していきます。また、財閥としての組織体制が完成した三井財閥は、これ以降、財閥としての最盛期を迎えることとなります。
大戦不況で没落した新興財閥たち
その後、大正時代に入ると、日本は欧州での第一次世界大戦勃発(1914~1918年)に伴い、空前の大戦景気を享受します。この時期、鈴木商店をはじめ、三井や三菱に続く多くの新興財閥が勃興しました。
しかし大戦が終わるや、日本を含め世界全体が大きな不景気に陥ります。特に新興財閥の多くは、大戦期に強気な事業拡大を図っていたことが仇となります。さらに1923年の関東大震災が追い打ちとなり、新興財閥の大半が事業の縮小、破綻の憂き目に追いやられることとなりました。
一方、三井や三菱など明治中期に成立していた既成財閥は、新興財閥がことごとく倒れるのを尻目に、事業規模を逆に拡大していきました。
既成財閥は大戦中、戦後の不況を冷静に見据え、新規投資を抑える保守的な経営方針を採っていました。この予測が見事に当たり、三井財閥や三菱財閥は大戦後の不況による損失を最小限に食いとどめたのです。また、破綻した新興財閥系企業を吸収する形で、その規模をより拡大させていきました。