2.コソボ独立の歴史

(1)コソボ紛争

 コソボは、長らくセルビア共和国内のコソボ自治州であったが、コソボの独立を目指すアルバニア系住民と、それを認めないセルビア当局の争いが続いてきた。

 コソボでは1968年と81年に自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が起こった。

 1998年初めに武力衝突が激化し、2000人以上が死亡、30万~40万人の避難民が発生し、国際問題となった。

 1999年3月には北大西洋条約機構(NATO)がユーゴスラビア空爆など軍事介入に踏み切った。

 結局、セルビア共和国がコソボから治安部隊を撤収する代わりに、コソボはセルビア共和国にとどまることが合意され、停戦協定が締結された。

 紛争終結後、1999年6月10日に国連安保理の決議1244号に基づいて、コソボに民生部門を管轄する「国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)」が設置されるとともに、NATO(北大西洋条約機構)を主体とする「コソボ治安部隊(KFOR:Kosovo Force)」が軍事面を管轄することになった。

 UNMIKやKFORの貢献によって、戦争中に逃れたおよそ85万人の難民のうち少なくとも84万1000人が帰還し平常生活が取り戻された。

 2001年にはUNMIKの下で、「『暫定自治のための憲法的枠組み』規則」が制定された。

(2)独立宣言

 2001年11月、コソボの議会議員が選出され、議会は2002年に最初の大統領と首相を選出した。

 12月、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)は、現地暫定機関への責任の委譲を完了した。

 しかし、治安、対外関係、少数者の権利の保護、エネルギーについては、コソボの最終地位が決まるまで、UNMIKが管理することになった。

 2005年11月、国連はアハティサーリ元フィンランド大統領を地位交渉仲介特使に任命し、コソボ、セルビア間の仲介交渉に当たらせる。

 2007年3月、アハティサーリ国連特使が、国際社会の監督下によるコソボの独立案を国連に勧告したが、同案を承認する安保理決議案は採択されなかった。

 2007年8月、米、ロ、EUの三者(トロイカ)の仲介によるコソボ、セルビア間の地位交渉が再開されたが、同年12月、不調に終わる。

 2008年2月17日、コソボ議会は独立宣言を採択した。これに対してセルビア側は交渉継続と独立反対を主張し同日に独立宣言の無効を宣言した。

 コソボ議会の独立宣言が国際法に違反しているとのセルビアの主張を受け、2008年10月に国連総会が国際司法裁判所(IJC)に対して適法か否か勧告的意見を出すよう求めた。

 2010年、国際司法裁判所は、独立宣言は国際法に違反するものではないとする勧告的意見を発表した。

 2016年7月現在、国連加盟国193カ国の内、日本を含む114国が独立国家としてコソボを承認しているもののセルビアやロシアなどが承認していない。

 また、国内に民族問題を抱える国の多くは、コソボの承認に対し反対ないし消極的である。

 国連への加盟については、安保理の勧告に基づいて、総会が決定すると規定されているが、常任理事国のロシアが反対しているため、コソボは国連非加盟国である。