サンクトペテルブルクにあるドストエフスキー文学記念博物館前で雪かきをする人(2021年11月30日、写真:AP/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 プーチンはなぜ今回の暴挙に及んだのか、それを理解するための示唆を与えてくれるふたりの意見を読んだ。

 ひとりはロシア文学者で東京外国語大学学長の亀山郁夫氏である。かれはインタビューに答えてこういっている(『毎日新聞』「ロシア文学者亀山郁夫さんの見方 前・後編」2020年4月15、22日夕刊)。

 プーチンは「新ユーラシア主義」の実現という執念にとりつかれている。それは「かつて社会主義の理念で結ばれた旧ソ連の版図を、統制経済とロシア正教の原理で一元化し、西欧でもアジアでもない独自の精神共同体」のことである。だからかれの「狂気」にも、ウクライナが犯したミンスク合意違反を咎めるという「正当化する論理」はあり、また「正教徒として強烈な使命感」がある。この「観念的なものへの過度の思い入れ」をドストエフスキーは「ベッソフシチナ(悪魔つき)」と呼んだ。ただその精神が本物か、「演技」なのか、侵略のための「口実」なのかはわからない。

 プーチンはほんとうはそれほどNATO(北大西洋条約機構)の脅威を恐れる必要はなかった、と亀山氏はいっている。「協力関係という選択肢もありえた」のだから。にもかかわらず、プーチンはNATOの東方拡大を侵略の口実にした。それは「ミンスク合意違反への怒りにもまして、精神共同体の夢が壊されるのが、よほど怖かったからではないでしょうか」。もちろんこれは亀山氏の推測である。だが一定程度の妥当性はありそうに思われる。

「神がなければ、すべては許される」

 亀山氏は今回の戦争で大きな衝撃を受けた。その衝撃を一言でいうなら、「ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』に出てくる『神がなければ、すべては許される』という言葉」だったという。つまりプーチン大統領も、軍隊も、ロシア人も含めたロシア全体が、その言葉を体現した行為だったのではないかということだ。

 それはブチャの「虐殺の事実」にも通じ、「ロシア人の精神の闇」にも通じているが、「逆にそうした自覚があるからこそ、彼らは、強い神、強い支配者を半ばマゾヒスティックに待ち望んでいたといえるのです。それは個人の自立を著しく遅らせてきました」。プーチンの支持率が80%を超えたことも、それは「この国に示された『愛国心』は、逆にうそに固められた国に生きる屈辱と恐怖の大きさの証でもある」。

 どうしてロシアでは人命の価値が軽いのか。「それは彼らが深い運命論に支配されているからです。酷薄な自然と長い不幸の歴史によって培われた世界観です」「ロシア人の魂の核心に潜む謎の正体とは、マゾヒズムです。別の言葉で言えば、受動性、極端な言い方をすれば、苦痛への愛です。これが、恐ろしく厄介なのです」。

 けっこう説得力のある考えである。しかしプーチンには、そんなことの底に、古今東西のすべての独裁者に共通する世俗的な権力維持欲と一族で利益を独占しようとする強欲がある。プーチンは国内においてより権力を行使したのだ。反対するものは殺し、民主勢力のメディアは弾圧し、デモをした市民は投獄してきたのである。