こうしたプーチンの主張が正しいかどうかはともかく、プーチンの決意の裏にはKGB(ソ連国家保安委員会)時代に培われた情報機関員としての視点、思考などが大きく影響していると考えられる。

プーチンに影響を与えたKGBの思想

 プーチンは元々、KGBの職員で、ソ連崩壊後は、KGBの後継組織FSB(連邦保安庁)の長官も務めていた。東ドイツでは、KGBから派遣されて東ドイツ国家保安省(MfS、通称「シュタージ」)に対する指導や指示をしていたようだ。シュタージは、東ドイツ国民に対する徹底した監視活動を行い、相互監視や密告を国民に強制し、一時期はKGBを凌ぐような巨大組織だった。プーチンは、1975年にKGBにリクルートされ、1990年まで在籍していたが、1989年のベルリンの壁の崩壊を体験し、ソ連の崩壊後はKGBが解体される惨状も目の当たりにした。

 プーチンが在籍していた頃のKGBの歴代議長は、ユーリ・アンドロポフ (1967年5月から1982年5月まで就任)など4人だが、中でもアンドロポフは、その後最高指導者である共産党中央委員会書記長に上り詰めるほどの人物だった。

 KGB時代、アンドロポフは、「人権のための闘争はソビエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と主張し、反体制派を弾圧するためにKGBに第5総局を設立した。

 この第5総局にはプーチンも所属していた。アンドロポフは、1968年にチェコスロバキアで発生した「プラハの春」はCIAなど西側情報機関の陰謀によるものだということを、証拠もないのに頑なに信じていた。

 当時のKGBでは、アンドロポフに限らず、イデオロギーにとらわれた硬直した官僚組織の軛(くびき)から脱することができず、「ソ連は超大国だ。すべてにおいて西側を上回らなければならない」という幻想と、「共産主義は資本主義より優位だ」というイデオロギー、「すべては西側の陰謀だ」という妄想から、解き放たれなかった。ソ連にとって都合の悪い情報は無視する、そして官僚たちの自分の地位を頑なに守る、という姿勢がソ連の崩壊を早めた。