春日山城 惣構の土塁

(乃至 政彦:歴史家)

どうする謙信(1)春日山城不倫事件編①「密通発覚」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67959
どうする謙信(2)春日山城不倫事件編②「謙信、〈馬鹿之者〉を裁く」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67960

須河原少年の送還

 さて、前回まで、鮎川盛長の家中から人質として差し出されていた菅原(須河原)某なる少年が、春日山城で人妻相手の不倫事件を起こし、色部顕長預かりとなったあと、盛長のもとへ返されるまでを見てきた。

 今回は少年のその後を追ってみよう。

鮎川盛長と色部顕長の関係

 まずは鮎川盛長と色部顕長の関係から見ていこう。

 大場沢城主の鮎川盛長は、会津の蘆名氏と同じ三浦支族である。越後の本庄家とは仲が悪く、謙信没後の御館の乱で本庄繁長が景勝側についたため景虎側に属した。だが、景虎が敗れると繁長に降り、景勝政権下で家名を保った。

 この盛長は、かつて川中島合戦や本庄繁長の反乱に際し、色部勝長や息子の顕長と肩を並べて軍陣を駆け巡った。

 ついで平林城主の色部顕長である。名族色部家当主の顕長は、永禄7年(1564)に元服し、永禄11年(1568)本庄攻めの陣中で没した父・勝長の跡を継いだ。その後病気により、家督を弟の長真に譲った。天正15年(1587)死去。

 さて、永禄11年(1568)の本庄繁長反乱の時である。これは不倫事件より何年か前のことだが、この時、繁長に大場沢城主を奪われた鮎川盛長が「粉骨」の働きを見せたのを知った謙信は、その家臣や傍輩までもその忠勇を絶賛した(『上越市史』607)。

 謙信が誉めた人物の中に「菅原太郎左衛門尉」「同新左衛門尉」の名前も見える。これが須河原(すがわら)の一族だろう。