東京オリンピックが開幕した7月23日、展示飛行を行った航空自衛隊のブルーインパルス(写真:浅尾 省五/アフロ)

(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 6月30日に公開した記事で、自衛隊の特殊部隊(海自の特別警備隊、陸自の特殊作戦群)を頼もしく思い、期待をしているとも書いた(「日本は「際限なしの泣き寝入り国家」なのか」、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65853)。

 そのときに取り上げた『邦人奪還――自衛隊特殊部隊が動くとき』(新潮社)の著者であり、特警隊の創設者でもある伊藤祐靖氏は、8年かけて特警隊を世界レベルの部隊に作り上げたが、42歳のとき、特警隊からの異動を命じられ自衛隊を辞めた。

 その1年半後、悲報がもたらされた。特警隊内で初めての死者が出たというのだ。25歳の3等海曹だった。海自呉地方総監部は「訓練中の事故」と発表したが、伊藤氏は「事件」と書いている。

「訓練」という名の「集団いじめ」での死

 この3等海曹は特警隊を辞めることを申し出ていて、「事件」が起きた日の2日後、元の部隊に戻ることが決まっていた。そのときの訓練は顔に防具、拳にグローブをつけ「3曹が15人を相手に1人50秒ずつ格闘する形で行われ、14人目のパンチをあごに受けて倒れた」。3曹はそのまま意識不明となり、2週間ほどの後、急性硬膜下血腫で死んだ。訓練には2人の教官が立ち会っていたという。

 だれもが推測するように、これは「訓練」に名を借りた「集団のいじめ」ではないのか。伊藤氏は到底ありえないというように、こういっている。「完全に燃え尽きてしまっている彼を、もはや何の意味もない訓練に参加させるなんてことができるはずがなかった。危険すぎるし、失礼すぎる」。また、伊藤氏が以前知っていた同期の隊員たちなら、辞めていく隊員の心情を慮って、訓練内容の変更を教官に直訴するはずである、といっている。教官も訓練生たちも、伊藤氏がかつて知っていた人間たちとは様変わりしていたのだ。

 伊藤氏が隊長だったときは、訓練に耐える隊員も耐ええない隊員もまったく平等な存在として処遇した。「特殊部隊員になるために、心身の限界に挑戦し続けている学生は、まさしく尊敬に値する。そして、自ら断念した学生もまた、尊敬すべき存在である」。だからかれは隊を辞めていく生徒にこういってきたという。「ご苦労だった。よく辛抱した。(略)俺はお前を尊敬する。今後も胸を張って次の人生目的にその姿勢でぶつかって欲しい」(『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』、伊藤祐靖著、文春新書)。

 そうなのだ。教官も隊員たちも、なぜこういう考えができないのか。なぜこういうふうにいって、3曹を温かく送り出してやれなかったのか。それどころかかれらがやったことは、集団リンチ過失致死事件である。2人の教官と15人の隊員の全員が、人間を痛めつけるのに歓びを感じるサディストだったとは思えない。しかし「わたしは嫌です」という者も、「教官、やめませんか」と意見具申する者もいなかった。教官と隊員たちに真の信頼関係がなく、有無をいわさぬ硬直した上下関係しかなかったように思われる。