一例を挙げると、文永の役の戦闘期間について八幡愚童訓では「元軍の博多湾突入後、嵐に遭って即退散し、1日で終わった」というふうに記述されています。しかし服部氏の研究によると、他の史料では戦闘が少なくとも数日間は継続していたことになっています。また元軍の出発から帰還までの行程から計算してみても、即日退散したのでは日程がまるで合わないそうです。

 そもそも八幡愚童訓の記述は全体からして非常に怪しく、“トンデモ本”と言っても過言ではないような内容です。具体的には、幕府軍が元軍に散々に打ち負かされて退却した後、八幡神の化身である白装束の神兵30人が現れて元軍を追い返したので日本は守られたと書かれてあります。言うまでもなく、中国側の史料に神兵が出てきたなどという記述はありません。むしろあったら怖い。

 こうした信頼性に欠けるトンデモな内容にもかかわらず、八幡愚童訓は元寇における第一級史料として長年にわたり君臨してきました。その史料価値について、大正時代に疑義を唱えた学者もいたそうですが、その後の皇国史観もあってそうした声はかき消されてしまったそうです。

「手に穴を開けて数珠つなぎ」は本当か?

 八幡愚童訓では、元軍の兵士が殺した日本兵の腸を食べていたなどと、元軍の残虐性を際立たせるような記述もみられます。しかし出典が出典なだけに、そんな記述を事実として取り扱うのは注意が必要でしょう。