(乃至 政彦:歴史家)
1578年(天正6年)4月19日に亡くなった上杉謙信。群雄割拠の戦国時代、常に戦に勝利し「戦国最強」と謳われるものの、その生涯は様々な「伝説」に彩られ、謎に包まれている。上杉謙信の関東遠征の真相を描きたちまち重版となった話題の書籍『謙信越山』の著者、歴史家の乃至政彦氏が、謙信の人物像や強さの秘密に迫る。(JBpress)
上杉謙信はどういう人物か
フィギュアスケートの羽生結弦選手が大河ドラマ「天と地と」をテーマとする演技を披露したことで、ドラマの主人公・上杉謙信への関心が高まっている。ここでは謙信をよく知らない方たちに、「上杉謙信入門」として、歴史研究の領域を飛び越え、その伝説的側面に光を当てていきたい。
戦う理想家
武将たちが領土争いに明け暮れた戦国時代に、
事実、謙信は自身の戦いを「順法の弓矢」と定め、「
このため謙信を「義将」と呼ぶ人も多い。古今東西において義将は「強い」と相場が決まっている。弱ければ、あちこちから援軍を頼まれたりはしない。謙信もまた「戦国最強」と呼ばれるほど強かった。
十数年ほど前、「そんな現実離れした武将がこの日本にいるわけがない」という声が高まり、「本当は乱取りや人狩りを好む暴虐な略奪者だったのではないか」とする批判が続出したことがある。これについては、拙著『謙信越山』で詳しく説明したので、気になる方はご一読願いたい。
もちろん謙信も中世武士の1人であるから、現代の倫理観で見ると、理解できないこともやっている。権臣の粛清、市街の破壊や、敵兵の殺戮である。
戦国時代は、京都の公権力が機能を失い、
そんな時代に謙信は生まれ育った。越後の国主である兄は病弱で、繰り返される内乱に適切な対応ができないでいた。そこで弱冠19歳の謙信が兄に代わって国主になった。すると内乱はぴたりと止まった。
しかし、家臣同士の確執が消えたわけではない。列強の横暴も相変わらずである。大きな理想をもって国主になった謙信は、現実の人間たちに失望して、国主を辞めて僧侶になりたいと言い出した。すると、家臣たちは「もう内輪揉めはしません」と謙信の出家を食い止めた。
以後、謙信は、理想のための戦争と政治をより一層追求するようになる。