(篠原 信:農業研究者)

 有名大学のある先生が嘆いた。「ああ、この学生さんは就職できないだろうな」。少し見たらすぐ分かるのだという。ある能力が欠如していることを。

 そう、コミュニケーション能力。

就職も進学も「コミュニケーション能力」ありき

 昔は偏差値の高い大学出身であれば引く手あまた、どこにでも就職できると思われていたが、今はそんな甘い状況ではない。人とうまくやっていけそうな、コミュニケーション能力の高い学生はあっという間に就職が決まり、人付き合いの苦手そうな学生は面接で落ちてばかりになるという。

 就職がうまくいかなかったので、研究者にでも・・・と大学院に進学希望する学生もいるが、大学教員の募集は非常に少なく、研究者になる道は険しい。そのうえ研究者もいまや、コミュニケーション能力がないと務まらないとされる。

 とある研究者は、自分の部屋にきたポスドク(博士号を取得後に任期制のポストで研究業務に従事している研究者)について、「コミュニケーション能力がない人は、研究者になっちゃダメだと思う。コミュニケーション能力がなくてもやっていける職業を選ぶべきだ」と言葉を漏らした。研究成果がすごくて書類審査はパスしても、コミュニケーション能力が乏しいと面接で落ちるからだ。

 今の日本は、どこでも「コミュニケーション能力」が求められる。しかし実は、コミュニケーション能力に問題が出ているのは組織・社会のほうではないか。組織・社会がもつコミュニケーション能力を低下させているから、人づきあいのうまくない人たちを排除するようになったように思われる。

集団にもある「コミュニケーション能力」

 筆者の小さい頃、公園に行くと小学生のお兄ちゃんが「みんなでキックベースボールをやろう!」と声をかけてくれた。一番小さい子は3歳。「この子は、5秒数えてから1塁に投げることにしよう!」と、どの子も楽しめるように柔軟にルールを工夫して、みんなで楽しむことができた。

 泣き虫、怒りんぼ、個性は様々。互いに文句を言いながらも、どの子も機嫌よく遊べる方法はないかと接し方・ルールを工夫して、みんなで遊んでいた。まさにインクルーシブ(包摂)だった。

 昔の人は、こうした「群れ遊び」を多く経験して、どの子も仲間外れにならないように工夫することを知っていたから、コミュニケーション能力が磨かれていたのかもしれない。では、現在の子どもたちの状況はどうだろうか。