倫理的な考えは、その思考する者の迷いの種となることがある

 私たちの意識とは一体何か。私たちの考えや心は、果たして自身のものなのか。

 意識とは知覚するものであり、主観とは、ある対象を認識し、評価する意識の働き、一般に自我と同一視される。

 古代ギリシャの哲学者、プラトン(前427~前347)は、精神や意識は物質に反映し、世界は単なる主観的な観念ではなく、物質が実在することで成り立っていると主張した。

 それに対しプロイセン王国(ドイツ)の哲学者イマヌエル・カント(1724~1804)は「個別を超えた超個人的な形態が、世の中の変転する現象の背後にあり、その普遍的な存在により、認識や世界が成立する。それは人間や動物など複数の事物に共通する」と主張する。

 人間の本質。それは欲望。欲望は善悪を超越した性質のもの。また、欲望がかなわぬことへの不満や怒りも善悪を超越した性質のものである。

 ビジネスの世界、その成功者、億万長者など、たとえ物質的にどんなに豊かであっても、内面の心は焦燥感に支配され精神的に不安定になる人が少なくない。

 権謀術数の果て、かかりつけの心療内科医を抱えたり、恵まれた環境にいながらも突然自殺したりする人が見失いがちになるもの。それは、本当の自分や現実の中にある本質を見失った結果ではないだろうか。

 現代社会では倫理的な思考が求められるが、その倫理的な考えでさえ、思考する者の心を翻弄し、迷いの種となることもある。

 また、たとえ物質的に満たされていたとしても、不安は絶えず隆起する。凡庸な者は雄と雌の羊のごとく、食欲と性欲を中心に生きる。

 すべての生きとし生きるものは生存本能に支配される。また、人間は自分より愛しい者はなく、ゆえに自己中心的な発想や行動をとる。

 釈迦は悟りに至った直後、最初に、あらゆる苦しみは、自分自身の幸せを追い求めることで生じると説いた。