(歴史学者・倉本一宏)
父は右大臣に出世した継縄
今回は前回とは逆に、名門に生まれながらも、あまり感心できない人物を取り上げよう。先に挙げた藤原南家の嫡流である継縄(つぐただ)の嫡男、ということは藤原氏の嫡流として生まれた乙叡(たかとし)という人物である。『日本後紀』巻十七大同三年(八〇八)六月甲寅条(三日)に載せられた薨伝は、次のような人生を語る。
散位(さんに)従三位藤原朝臣乙叡が薨去した。乙叡は右大臣従一位豊成(とよなり)の孫で、右大臣贈従一位継縄の子である。母は尚侍(ないしのかみ)百済王明信(くだらのこにきしめいしん)で、桓武(かんむ)天皇の寵愛を受けた。乙叡は父母の故に頻りに顕職を歴任し、中納言に至った。生まれつき頑(かたく)ななところがあり、妾を好んだ。山水の好地に多くの別荘を建て、女性と一緒に連夜、泊まることがあった。平城天皇が皇太子の時、乙叡は宴席で近くに坐り、酒を吐いて不敬に及んだことがあった。天皇はこのことを根に持ち、後に伊予親王の事件の際に連坐した。免されて邸に帰った後、自分に罪の無いことを知り、不満のまま死去した。時に行年四十八歳。
先にも述べたように、乙叡の生母である百済王明信は、桓武天皇の寵愛を受けるという「内助の功」を発揮し、これによって継縄は右大臣に上るという出世を遂げた。この二人の間に天平宝字五年(七六一)に生まれた乙叡も、はじめは藤原氏の嫡流として、順調に昇進していった。
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宝亀九年(七七八)に十八歳で内舎人、延暦元年(七八二)に二十二歳で兵部少丞に任じられたというのは、藤原氏の嫡流として、至極順当な歩みであったと言えよう。桓武と明信の関係がいつごろから始まったのかは、知る由もないが、継縄が大納言に昇任したのが延暦二年(七八三)であったことを考えると、あるいはこの頃であったものか。
そして乙叡も、延暦三年(七八四)に二十四歳で従五位下に叙され、侍従に任じられた。延暦五年(七八六)に従五位上に昇叙され、少納言に任じられ、延暦六年(七八七)に右衛士佐・中衛少将、延暦八年(七八九)に大蔵少輔、延暦九年(七九〇)に兵部大輔兼右兵衛督、延暦十二年(七九三)に左京大夫と、まさに薨伝が述べるように、「頻りに顕職を歴任」した。それを「父母の故に」と表現しているのは、なかなかに皮肉なものである。
そして延暦十三年(七九四)に三十四歳で参議に上り、ついに父継縄と共に議政官に並んだ。延暦十六年(七九七)には中衛大将、延暦十八年(七九九)には兵部卿をそれぞれ兼ね、延暦二十二年(八〇三)に四十三歳で権中納言、桓武が死去した大同元年(八〇六)には四十六歳で中納言に上った。