(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)
恒例の夏の歴史集中連載として、旧日本陸軍を中心に強い影響力を発揮し、日本の戦前の歴史を形作ったエリート集団「長州閥」の栄光と衰退について、3週連続でお届けしています。
前回は、長州閥は「松下村塾の塾生 → 奇兵隊出身者 → 戊辰戦争功績者」という3段階を経て、基礎となる中心メンバーが固められていったことを紹介しました。2回目となる今回は、明治期に最盛期を迎えた長州閥の栄光と、その首魁(しゅかい)とも言うべき山縣有朋(やまがた・ありとも、1838~1922年)の関与について紹介していきましょう。
(前回)「近代日本を牛耳った長州閥はこうして形成された」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57016
長州出身のツートップ
長州出身者で最も出世し、影響力が大きかった者を選ぶとしたら、間違いなく山縣有朋と伊藤博文(1841~1909年)の2人に絞られるでしょう。どちらも松下村塾出身者で、ともに江戸時代には非常に低い身分の出身者でありながら総理大臣にまで昇り詰め、日本の歴史において豊臣秀吉に次ぐ大出世を果たしています。
この長州出身のツートップとも言える山縣と伊藤ですが、2人が本格的に国政を動かすようになっていくのは、西郷隆盛が敗死した「西南戦争」(1877年)と、大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」(1878年)以降です。
発足当初の明治政府内では、山縣は西郷に、伊藤は大久保に師事していました。しかし、薩摩出身のそれら重鎮2人がこの世を去ってからは、山縣と伊藤が国民皆兵(こくみんかいへい)、中央集権制という路線を引き継ぎ、政府内で軍事、内政を主導する立場となっていきます。