スペインにおけるユダヤ人の人口は、レコンキスタの過程で、当然ながら減少し続けます。レコンキスタ完了目前の1478年、スペインでは、約20万人のユダヤ人が暮らしていましたが、そのうち10万人は隣国・ポルトガルに移り住みました。
1495年に即位したポルトガル王のマヌエル1世は、ユダヤ教徒に寛容でしたが、スペイン・カトリック両王の娘イサベルと結婚するにあたり、スペイン側からユダヤ人を追放するよう迫られます。
しかし、ユダヤ人が経済的にも文化的に非常に重要な役割を果たしていることを知っていたマヌエル1世は、何とかして彼らを国内に留めようとします。そこで彼は形式的に、1497年3月で全ユダヤ教徒がキリスト教徒になったことにしたのです。
この時に、“形式上”、キリスト教徒に改宗した人たちを、新キリスト教徒と呼びます。内心ではユダヤ教を信仰することも事実上黙認されたわけですが、それはいつ糾弾されるかも知れぬ生活を送るということでもありました。事実、その後、スペインやポルトガルでは苛烈な「異端審問」が行われるようになるのです。
アントウェルペンからアムステルダムへ
そうした背景があったので、新キリスト教徒は常に信仰の自由が認められる地を探していました。1500年代初頭、彼らの中からアントウェルペン(現在のベルギーの都市)に貿易のために定住する人々が出てきます。彼らは、スペイン人やポルトガル人、さらにはスペインの迫害を逃れて、北アフリカ、トルコ、地中海の他の地域に住み着いた家族たちとの経済的絆を維持し続けました。そのネットワークが経済活動の大きな強みにもなりました。そしてもちろん、スペインとポルトガルの支配から逃れた人々は、再びユダヤ教に改宗していきました。
その後、アントウェルペンの新キリスト教徒は、隣国オランダのアムステルダムに定住するようになります。スペイン国王フェリペ2世が1585年に南ネーデルラント(現在のベルギー)を陥落させたからです。またもやスペインの支配から逃れなければならなかったのです。
オランダ人の多くは改革派教会(プロテスタント)に属していましたが、彼らにユダヤ人を迫害する気持ちはありませんでした。それは、ユダヤ人が富をもたらす存在だとしっていたからです。
17世紀になるとユダヤ人はオランダ共和国にさらに受け入れられます。1639年、公にユダヤ教を信仰することが許されるのです。アムステルダムには、ユダヤ人のためのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられるほどでした。
セファルディムの中には、ハンブルクに住み着く人々もいました。ハンブルクはルター派の都市でありながらも、同時に宗教的に寛容で、セファルディムは市民権こそ取得できませんでしたが商業に従事することができました。そのため迫害を逃れて、ハンブルクで商業に従事する人々もいたのです。
新世界とセファルディム 砂糖の王国
セファルディムは大西洋貿易においても非常に大きな役割を果たしました。スペイン、ポルトガルの新世界への進出とともに、彼らもより自由な土地での活動を求め、大西洋貿易に従事し、新世界に移住したのです。もちろんそこには、新世界で迫害を受けることなく、自分たちの信仰を貫きたいという思いがありました。
こうした中、16世紀後半ごろからユダヤ教徒であるユダヤ人とコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ人)は、ポルトガル、ブラジル、さらにオランダとの貿易ネットワークを形成していくのです。