「維新があっても、結局、百姓の生活は一向に変わらない。政府は税金を上げるばかりだ。東京では、政府の官吏は随分と無駄遣いをしています。豪邸を建てて贅沢三昧(ざんまい)の者も多いです。百姓が一生懸命働いて納めた金は、もっと有効に使わねばなりません」
そこまで言うと、犬養は照れくさそうに笑った。
「剣持さん、私は当選したら、議会でこの思いをぶつけます。まずは冗費の削減からだ。この戦い、何としても当選してみせますよ」
犬養は剣持と手を取り合い、何度も強く握りしめた。
驚異的な投票率
7月1日の投票日。犬養は1913票を獲得して圧勝した。対抗馬の林醇平は438票。
剣持老人の計算では、選挙運動費は握り飯代と草鞋(わらじ)代くらいで、26、7円で収まった。大隈から借りた選挙資金はすぐに返済した。林陣営は地元の倉敷までも犬養に侵食され、最後は買収に走った。金額は1人50銭だったと記録にはある。
こうして犬養は、故郷岡山に盤石な政治的地盤を築く第一歩を踏み出した。初めての当選記念に、実家の門の脇には楠(くすのき)が植えられた。それは1世紀以上も後の世に、庭瀬の風に枝を揺らす大樹に育っている。
日本で初めての選挙は、投票率93.9パーセントという驚異的な数字を記録した。投票用紙に候補者の名前だけでなく、役人の目の前で自らの住所、氏名を書き、印鑑まで押さねばならなかった。それでも、選挙という「初物」が人々の好奇心をそそったか、現在に至るまで最高の投票率である。
結果として、自由党系が130人前後を獲り、地方に弱い改進党系は40人前後に留まった。両者を合わせると、民権派が過半数を占めた。それぞれ数が曖昧(あいまい)なのは、両党とも弱体化していて議員の旗幟(きし)が必ずしも鮮明でなかったからだ。
一方の政府側は、官吏出身の議員たちに呼びかけ、院内会派「大成会」を組織した。これが79人と、数の上では劣勢だ。このため初議会は波乱が予想され、誰も総理大臣をやりたがらなかった。回り回って、山県有朋(やまがたありとも)がその席に就いた。
自由党の中江兆民(なかえちょうみん)は、民権派の政党を「民党」と呼び、政府寄りの政党を「吏党(りとう)」と名付けた。この呼び名が新聞を通して広まっていく。
果たして第1回帝国議会は、民党と吏党の激しい対立の場となる。