ただし、長期にわたるフランスとの戦争の中で、国債発行額が膨大なものとなりイギリスの公信用に危機が訪れました。そこで1797年、時の首相であった小ピットは所得税(Income Tax)を導入し、60ポンド以上の所得者に対して累進課税を課すようになります。この措置により、ようやく上流階級の税負担が増し、中間階層との税負担の格差がいくぶん小さくなったのです。
しかしこれもあくまでも対ナポレオン戦争を遂行するための緊急的な措置でした。ナポレオン戦争が終わると、たちまち廃棄されてしまったのです。したがって、18世紀のイギリスの税制の根幹をなしていたのは、一貫して消費税と関税を主とする間接税で、その最大の負担者は中間階層だったわけです。
フランスの財政はどうだったのか
一方、イギリスと争っていたフランスの財政状況はどうだったのでしょうか。
17世紀初頭から18世紀初頭にかけ、フランスの支出は大きく増大しました。もちろんイギリスとの戦争のためです。
さらに17世紀前半から18世紀にかけて、フランスの財政政策は大きく混乱していました。頻繁に蔵相が変わったことが、その一因でした。
ただ絶対額で見れば、1783年の時点で、フランスの負債額はイギリスよりも少なかったのです。大国フランスよりも、まだまだ二流国だったイギリスのほうが負債額は大きかったわけです。
問題は、税収に占める利払い額の比率でした。実はフランスの方が、イギリスよりも税収に占める利払い額の比率が高かったのです。借金返済額が膨らんでしまい、アンシャン・レジーム期とフランス革命期のフランスでは財政危機が常態化し、何度も債務不履行を繰り返していました。さらに、フランス革命の際、再税再建に取り組んだネッケルがアシニア紙幣を導入しますが、この紙幣に信用がなかったので大インフレが生じてしまいます。さらにナポレオン戦争以後も、フランス議会の支出は大きく増えたのです。
またフランスでは、国王が官職を売って軍事費を調達する官職売買が盛んに行われました。言い換えれば、非常に脆弱な財政システムしか備えていなかったわけです。
フランスが直接税を中心とするアンシャン・レジーム期の財政制度から脱し、近代的国家財政制度へ転換したのは、フランス革命が発生した1789年ではなく、ナポレオン戦争が終了した1815年以降のことで、消費税が主要な財源になるのも19世紀になってからでした。
また表から明らかなように、フランスの主要な税は地租でした。これは消費税とは異なり、経済が発展する以上に税収が増えるということが期待できる税ではありません。消費税による税収が増えず、さらに国家歳入そのものがイギリスほど増えなかったフランスは、そのために何度も財政危機に瀕したのです。これが、フランス革命を引き起こすことになります。
ここからも明らかなように、重要なのは借金の額そのものではなく、借金の返済を容易にするようなシステムの構築でした。この点で、イギリスはフランスよりも進んでいました。フランスの財政制度は、経済発展の時代に適していたとは言い難いものでした。
クロムウェルの遺産
航海法と消費税という2つの制度は、イギリスの経済成長、さらには帝国主義化を支えた二大支柱でした。これらがなければ、イギリスは決して世界に冠たる大国にはなれなかったはずです。クロムウェルなくして大英帝国なし、と言えます。われわれはクロムウェルの偉業を、もっと高く評価すべきではないでしょうか。