戦後英国の日本学をオックスフォードとシェフィールドの両大学に起こして基礎を固め、たくさんの学者を育てながら、政治権力とは終生無縁、弟子達に囲まれ学統の頭目としてふんぞりかえることもなかったのがジェフリー・ボウナス教授である。
今は亡き、と言わなくてはならなくなった。
自伝的随想によれば、父は第1次大戦に通信兵として従軍、復員後は郵便局員になった。その子として1923年、ヨークシャーの片田舎に生まれた教授の実家は、とりたてて裕福でも、書物があふれている場所でもなかったようだ。
けれども良い先生や、通った図書館では献身的な司書に恵まれ、奨学金を得てオックスフォード大学クイーンズ・コレッジへ進む。
英国にも存在した歴史の皮肉
日本が米英相手に仕掛けた自暴自棄な戦争は、それがなければ恐らく日本に目を向けなどしなかっただろう若い俊秀を、極東の島国へひきつけることになる。歴史の皮肉である。
ドナルド・キーンら、米国にこうして生まれた一群の学者たちはよく知られている。事情が英国でほぼ同様だったことは、存外われわれの注意に上らない。
けれどもボウナス教授はそうして戦争が見出した(文字通りの意味において)若者の1人だった。
日本語を強制的に学ばされることになった5番目の男
1943年3月の、ある冷たい風が吹く朝、午前8時のことだったという。
陸軍に加わっていた教授は、北ヨークシャーの兵営で運動場に並ばされていた。
指揮官は鬼のような曹長である。「全員聞け」と大音声を張り上げ、兵隊たちが注意を傾けたのを確かめたら続けてこう言った。