11歳のとき、ローマに移住。アッティリオはアルベルト・モラヴィアなどと文芸誌を始め、その活動には若手詩人ピエル・パオロ・パゾリーニも参加していた。
16歳時、すでに短編映画を制作。夏休みにはパリのシネマテークに通い、ヌーヴェルヴァーグ、特にゴダールの『勝手にしやがれ』にはまった。
自身の投影ともいえるその姿は、パリの五月革命のさなかのシネフィル達の物語『ドリーマーズ』にある(→「現代史としての映画史、1968年の新しい波」で詳述)。
20歳の時、パゾリーニに声をかけられ、その初監督作『アッカトーネ』(1961)で助監督をつとめると、パゾリーニが諸事情で監督することを断念した『殺し』(1962)で21歳にして監督デビュー。
パゾリーニの原案を料理し映像作家としての非凡なる才能を認められると、監督第2作『革命前夜』(1964)では思う存分自身を投影。
パルマの街へのノスタルジー全開のヌーヴェルヴァーグ的映像に繰り広げられるブルジョワ青年のイデオロギーのゆらぎから、ベルトルッチその人が見えてくる。
さらに、ドストエフスキーの小説を下敷きにした『ベルトルッチの分身』(1968)では精神分析的側面、恩師パゾリーニ、敬愛するゴダールも参加したオムニバス映画『愛と怒り』(1969/日本劇場未公開)の一篇では「死」、と、「らしい」テーマを掘り下げた作品が続くが、こうした初期作品群は、自身の言葉を借りれば、観客を念頭に置かず制作された「モノローグ」映画。
1970年、そうした作品に大きな変化が訪れる。
テレビ用映画『暗殺のオペラ』の制作に入ったベルトルッチは、テレビ放映という性質上、極めて多くの視聴者に向かい語ることになり、作品が「ダイアローグ」へと向かったのである。
そうして完成した、反ファシズムの英雄だった父の暗殺の謎解きを進める息子が迷い込む迷宮の物語は、恩師殺しの任務を負ったファシスト青年の心の動きを追った次なる劇場用作品『暗殺の森』ともども、イタリアが、世界が、内向きに大きくブレるいま、再見の価値がある。
次回は、そうしたことを中心に、今一度、ベルトルッチ作品の足跡をたどってみたいと思う。
(本文おわり、次ページ以降は本文で紹介した映画についての紹介。映画の番号は第1回からの通し番号)
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