テレビで「提供各社」のクレジットが入るとき、背景に映る文字などにモザイク処理がなされることに違和感を持たないだろうか。あれは放送局側から、広告主への「配慮」によってなされているという。だが、むしろモザイクが気になってしまって、どこの提供による番組なのかが頭に残らない。まったくもって逆効果ではないかと感じてしまう。
記者会見の様子を伝えるニュース番組では、フラッシュの点滅を抑える画像処理がなされる。これは視聴者への「配慮」だ。以前、子ども向けアニメ番組で、てんかんの発作を起こしたというニュースが報じられたあたりからだと記憶している。しかし、記者会見現場で多数のフラッシュを受ける対象者には、てんかんの発作を起こす可能性の有無をちゃんと確認しているのだろうかと、余計な心配をしてしまう。
配慮、配慮、また配慮。最近の世の中は、「忖度して配慮」が多いなぁと感じる。人の気持ちを汲んで、先回りして行われる「自主規制」もそれに比例して多い。いまや日本は一億総センシティブ社会といってもよいぐらいだ。社会的弱者の保護は必要だと私も思うが、声を上げることのできる者の権利を、当事者が「助けてくれ」と叫ぶ前に保護してはいまいか。
もしかすると外交などでもその忖度っぷりは、いかんなく発揮されているのかもしれない。自国の利益と権利を主張し合う外交の場にあって、相手国が日本を慮ってくれることはまずない。国内向けのニュースでは「強い態度」と報じられていたとしても、それは政権に対するメディアの「配慮」であるかもしれない。
苦境のテレビ業界はどこへ行く?
今回はそんな忖度と、配慮と、自主規制の多さが目に付くテレビ業界を考えてみたい。戦後の日本の生活に寄り添い、世論をリードし、形成することで隆盛を極めたテレビは、多チャンネル化や個人による動画配信といった新しい時代の波によって、苦境に立たされている。自ら打つ手を狭めている感のあるテレビ業界は、時代の変化にどう対応していくのだろう。