深夜にお電話を頂き、2月20日午後11時47分、金子兜太さんが亡くなられたことを知りました。翌日、取るものも取りあえず、ご自宅のある熊谷におうかがいし、この原稿も現地で書いています。
折から五輪の報道が流れ、そんなつもりはないのに金メダルだ銀メダルだという話と、兜太さんのことが二重写しになっている。その偶然から、本稿を記し、思いの一としたいと思います。
端緒
金子さんを知ったのは、そんなに昔のことではありません。実際、まだ2年弱のご縁ですが、どういうわけか初対面から馬が合った。いや正確には、馬を合わせていただいた。
2016年の春、畏友・土屋恵一郎氏の肝いりで、明治大学が憲法シンポジウムを開き、そこに金子さんと、やはり俳人で日経俳壇の選者など務めておられる黒田杏子さんが登壇されました。
そこでのお話をうかがい、東京新聞の担当者を通じてご連絡を差し上げたのが5月の連休頃だったかと思います。
96歳 戦後前衛俳句の巨匠と言うより、トラック島の最前線で(飢餓を含むあらゆる命がけの戦いを)戦い、戦後は収容所生活を経て帰国された。
経済学部出身で日銀マンでもあった確固たる一芸術家の、ある肉声に触れ、どうしてもお会いしたい、お話を聞きたいと思い、連絡を差し上げました。
驚嘆したのはある電話です。
私はたまたま立川駅前を歩いていました。すると見慣れない着信番号の電話がかかってきました。どうも関東地方のどこかからのようですが、取ってみたところ、大変活舌のよい早口で
「あー、金子でございます、金子兜太ですが、伊東先生でらっしゃいますか」