今回は、大河ドラマ『光る君へ』第41回「揺らぎ」に登場した神尾佑が演じる平為賢(たいらためかた)を取り上げたい。
文=鷹橋 忍
父は実資に仕えていた?
関東の平氏は、桓武天皇の曾孫(孫とする説あり)・高望王が寛平元年(889)頃に臣籍に下り、平朝臣姓を賜り、上総介となって、関東に下向したことにはじまる(高橋修編著『常陸平氏』所収 高橋修「総論 常陸平氏成立史研究の現在」)が、為賢は高望の一男・平国香(もとは良望とも)の曾孫にあたる。
為賢の祖父・平重盛(常陸平氏の祖)は、「平将門の乱」を鎮圧した功労者である平貞盛の弟だ。
為賢の父・平維幹は重盛の子だが、貞盛の養子となったと考えられている(鈴木哲雄『動乱の東国史1 平将門と東国武士団』)。
維幹は、秋山竜次が演じる藤原実資に仕えていたともいわれる(太田亮『姓氏家系大辞典』)。
為賢は常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)を本拠としていた。
だが、当時の武者は土地に縛られることなく、職業的戦士として活躍する場を求めて、列島各地を盛んに移動していたという(野口実『増補改訂版 中世東国武士団の研究』)。
刀伊の入寇
平為賢は、これから延べる「刀伊の入寇」において、竜星涼が演じる藤原隆家の指揮のもとで大活躍し、「府の止むこと無き武者」と称された一人である。
府の止むこと無き武者は、「大宰府の立派な武者」(倉本一宏『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)、「血統書付の身分ある武者というほどの表現」(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)などといったイメージで語られている。多くが拠点を京と鎮西の両方に持ち、功臣の末裔とされる(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。
また、刀伊の入寇とは、寛仁3年(1019)3月末~4月にかけて、刀伊(東女真族)が対馬・壱岐から北九州に攻め込んできたという大事件を指す。
まず、寛仁3年3月28日、刀伊の兵船50余艘が対馬、壱岐に襲来し、殺人、拉致、放火の蛮行に及んだ。
4月7日には筑前国の怡土郡、志摩郡、早良郡に侵攻。多くの人々を連れ去り、老人や子どもを惨殺し、牛馬や犬を殺して食したという。
刀伊の襲来は4月7日に、大宰府に伝えられた。
この未曾有の危機に、大宰権帥(大宰府の次官だが、実質上の長官)の任についていたのは、41歳の藤原隆家だった。
歴史物語『大鏡』第四巻「内大臣道隆」によれば、隆家が京を離れ、大宰権帥となったのは、眼病を患い、大宰府にいる宋人の名医の治療を受けるという目的もあったという。
理由はともあれ、この時、隆家が九州統治の事実上の最高責任者として、大宰府に赴任していたことは幸運だった。
『大鏡』によれば、隆家が善政を敷いたため、九州の人々は彼に心酔していた。
隆家の人望と力量により、大宰府関係の武者たちと在地住人たちは一丸となって、刀伊の軍勢への迎撃態勢をとることができたという(野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』)。