チェルノブイリ原発、巨大な新シェルター公開 ウクライナ

ウクライナのチェルノブイリ原発4号機を覆うために新設されたシェルター(2016年11月29日撮影)〔AFPBB News

チェルノブイリ原発の石棺

 「サルカファッグ(石棺)」

 ウクライナのジャーナリストたちは、エジプトのミイラを納めた方形の石棺に似ていたことから、鉛とコンクリートで覆われたチェルノブイリ原発4号炉をこう呼んだ。

 1986年4月26日に大爆発事故を起こし、その5か月後に、石棺は完成した。未曽有の大事故だった。爆発によって、広島に投下された原爆の500倍もの放射性物質が大気に拡散し、大地に降下した。

 電気エネルギーの恩恵とは、無縁だったロシア・ベラルーシ・ウクライナの人々の素朴な暮らしが根こそぎ覆された。

 放射能とは、放射性物質は何なのか、どんな影響があるのか、誰にも分からなかった。そんな時、彼の国の人々にとって寄る辺となるのが、原爆が投下された広島・長崎の経験をもつ日本だった。

 日本からの支援団体が現地に入り始めた1990年頃は、旧ソ連邦は末期状態。現在以上に「日本から来ました」と言うとトヨタ・日産・ソニー・パナソニックの名前が、田舎のおじいちゃんたちからも飛び出すほどに、進んだ工業技術と豊かな国という印象が定着していた。

 私たちの民間支援団体が、ウクライナ、キエフからの要請を受けて、「チェルノブイリの子供たちの命を救おう」とウクライナの隣国ベラルーシに向かったのは、1991年だった。

 原発のあるウクライナよりも、事故直後の風向きでベラルーシに放射性物質の70%が運ばれ、降下したのだった。

 事故後、5年。この時点でも、石棺にヒビが入り、放射性物質は、外に漏れ出していると心配された。革命以後の窮屈なソ連邦の崩壊を目の当たりにしつつ、支援活動は続いた。

 日本なら助かる命が、かの地では絶命していく、そんな医療格差にがあってはならない。病院では、白血病治療以前に、感染症で黄疸の出ている子供たちに出会い、網戸が破れ、虫の入ってくる手術室で切れないメスで行われる手術、どれを取っても、驚きと胸が痛くなるものだった。

 石棺の修復は、その当時から言われていた。様々な案が模索されていた。