【写真特集】北朝鮮、金日成主席生誕105年の軍事パレード

北朝鮮の首都・平壌で行われた軍事パレードに登場した戦車(2017年4月15日撮影)〔AFPBB News

 かつて現役自衛官として勤務していた時、必要があって米国の議会議事録を読む機会があった。与野党の議員たちが大陸間弾道弾(ICBM)や戦車など、軍の兵器・装備について共和党や民主党などの党派を超えて真剣に議論している姿勢に驚いた。

 同時にこうした議論が印刷されて公開されるのが民主主義国家であることも理解した。

 政治家たちにとっては、選挙民に対して、国家の安全保障について責任をもって議論しているから、安心して日々の業務に精励してほしいというメッセージにも思えた。

 議事録の処々に空白箇所が散見されたが、それはICBMのCEP(半数必中界:発射した弾頭の半数が落下する半径)や、新型戦車の有効射程と命中率など「秘」の部分で、いくらオープンを旨とする米国においても公刊文書では空白にせざるを得ない箇所であったのだ。

日本の安保論議は?

 翻って、日本の安全保障論議はどうであろうか。一昨年の安保法案の国会審議を振り返るのも「嫌になる」くらいお粗末であった。お粗末というよりも論戦になっていなかった。

 「先生と言わるほどのばかはなし」というのが一時期流布したことがあった。安保審議を観た限りではさもありなんと思った国民も多かったのではないだろうか。

 国会論戦では、大臣は質問された事項だけに短く答弁する仕組みとなっているそうである。質問者は議論の進行よりも、法案阻止を目標としているために、国民に分かりやすい議論に持っていくどころか、混乱をもたらすような答弁を引き出し、進行を妨げようとする。

 主務大臣が所掌柄、国民の理解を得るように詳しく答弁すると、野党の質問者は「そんな答弁は求めていない」「(質問時間が少なくなるので)短切にお願いしたい」と必ず注文をつける。注文つける時間がもったいないと思えるくらいである。

 安保法制が成立し、内閣改造で離任することになった時に記者会見でみせた中谷元防衛大臣の顔が忘れられない印象として残っている。主務大臣でありながら国民の納得を得るような十分な論戦ができなかった慙愧の念の様であった。

 大臣の答弁力量というよりも、質問者が近未来に想定されるかもしれない諸々の脅威から目をそらし、憲法論議に持ち込み、神学論争に終始したため、真に必要である法案であるにもかかわらず、国民の理解を十分に得られなかったからに違いなかった。

 当時も脅威は存在したが、今ほど顕在化はしていなかった。今ではだれの目にも明らかなように眼前に顕在化した脅威が存在する。