南京事件について、日本では民間人20万人以上を虐殺したという意見から、戦争に伴う殺戮はあったが意図的な虐殺はなかったとする意見まで存在する。
歴史的な問題なので、日本では学術的に戦史家を含めた歴史家が主体になって研究するテーマであるが、中国は日本の反対を押し切って「南京大虐殺」として宣伝し、ユネスコの「世界の記憶」にまで登録した。
中国の主張は政治的な面が濃厚で、日本を犯罪国家に貶めることによって自国の犯罪歴の相対化を図り、同時に格差社会の内部矛盾によって生じる危険なエネルギーを日本に向けて発散させる意図があるとみられる。
こうした中国の目的や意図に照らすと、日本の関係者が精力的に行っている学術研究の成果は二の次三の次である。現に、日本人の真摯な研究には一切耳を傾けようとしない。
聞く耳を持たない以上、日本が学問的研究で対処しても中国を納得させることはできない。日本で「ああでもない、こうでもない」と議論が盛り上がれば上がるほど、「虐殺があった証拠」とか、「虐殺を隠蔽しようとしている」と、巧みに宣伝に取り入れられるだけである。
以下では、中国の「政治的」主張にいかに対処するべきかを考える。
事件を報道する記者魂
日清戦争の時、旅順虐殺事件(1894年11月21~23日)があった。日本の騎兵斥候隊約20人が捕えられ、隊長や兵士を惨殺して首をはねて晒し、遺体の傷口からは石を入れ、あるいは睾丸を切断するなど、その惨状は見るに堪えないものであったと言われる。
これを見た一部の日本軍は激高し、便衣兵となって逃げ込んだ中国人兵士を旅順市内で掃討する一方で、隠匿などで加勢していた市民もいたことから、多数の市民を惨殺した事件である。
3日間の行動であるが、参加した軍人たちの日記や手記、10人前後の内外記者の報道、画家やカメラマンの記録、そして陸奥宗光外相(当時)をはじめとして外交に携わった者たちの報告などの資料が多数残されている。
被害者である中国側でも同様に多くの記録が残されている。記録の内容は千差万別であるが、いずれの記述からも鬼気迫るものが感得される。
通州事件でも同様である。支那事変の発端とされる盧溝橋事件(1937年7月7日)の3週間後の7月29日、通州の日本人居留民を保護する任務の中国人保安隊が、日本の民間人を惨殺する事件が起きた。
午前3時頃、通州の城門が閉じられ、異常を感じた日本人もいたが、日本人が訓練した中国人保安隊でもあり信頼し切っていたところに最大の誤算があった。
日本人家族のみが襲われたことからも、周到な準備の下に実行されたもので、半日間に385人中223人が残虐な方法で殺されてしまった。
かろうじて生き残った記者や居留民の手記、救出に向かった軍隊・軍人の報告書や証言、外交ルートでの記録などが、ここでも多数残されている。