中国やロシアが領土問題で、日本に対してにわかに強硬な姿勢を見せ始めたが、これに対する民主党政権の対応が定まらない。

 尖閣諸島の問題を巡っては、政府の対応が迷走し、中国に首脳会談をドタキャンされ、衝突のビデオは一般に非公開で見せる始末だ。

 特に目立つのが菅直人首相の指導力のなさである。「友愛」とか「東アジア共同体」とか、意味不明ながらも理念のあった鳩山由紀夫前首相に比べても、菅氏が何をやりたいのかが見えない。

 他方、今や菅首相より存在感を増している仙谷由人官房長官の姿勢は、よくも悪くも、まだ明確だ。尖閣諸島を巡る検察の「外交的配慮」を擁護し、日本の対応を「弱腰」ではなく「柳腰」だと弁護する。

 この2人に見られる共通点は、学生運動の影響である。民主党には、この他にも元活動家が多く、千葉景子前法相は中央大学全共闘(ブント系)、赤松広隆前農水相は早稲田大学の社青同解放派の活動家だったと言われている。

 これは当時としては、それほど珍しいことではなかった。1960年代には、まったく学生運動に関わりを持たなかった学生の方が少ない。

 彼らは「全共闘世代」と言われるが、正確に言うと菅氏は全共闘ではなく、東京工業大学で「全学改革推進会議」という組織を設立し、穏健派の学生運動のリーダーだった。他方、仙谷氏の所属したのは東大のフロント(社会主義同盟)で、こちらも議会を通じて「構造改革」を進めようとする穏健派だった。

 今では想像もつかないだろうが、当時の学生運動の主流は「三派全学連」と呼ばれた社学同(ブント)、社青同、中核派などの暴力革命によって権力を掌握しようとするマルクス・レーニン主義であり、菅氏や仙谷氏のような議会主義は少数派だったのである。

左翼の失われた理想

 しかし全共闘運動の命は短かった。69年1月の安田講堂の攻防戦をピークとして、主流派の活動家は逮捕され、分裂した組織は連合赤軍のように武装闘争に走り、内ゲバで自滅した。