意味をなくした最たるものは、G7体制だろう。
これは日本にとって、少なからず立場を失わされる事態だ。
G7の一翼に列したことは我々にとって、「世界の一等国に伍す」国民的悲願を、国際連盟からの脱退やら敗戦やらを挟み、やっとのことで実現したようなものだった。
国連安保理に定席のない日本にとってはなおのこと貴重な舞台だったのに、G7の隊伍自体が、金融危機の渦中で総崩れとなり、20カ国がひしめき合う雑踏(G20)へ半強制的に混入させられたわけである。
G7体制の崩壊とは、“the West”が近代以降独占してきた指導的地位の崩落である。壊れた神話とは従って、戦後にできたというより、近代総体の産物だったと言った方が正しい。
米国の地位低下がこれに加わる。アメリカとは、登攀不能の高峰だったはずが、随分と身をこごめてしまったかのような・・・。GMの崩壊と、軌を一にするごとく中国が世界最大の自動車市場として現れたことは、幾重にもシンボリックだった。
緊縮と軍縮
試みに、「austerity」という言葉の頻出度を見てみた。austerityとはいま英語メディアでほぼ連日目にする単語で、「緊縮財政」だとか「耐乏」を意味する。「慎ましい」という、少しばかり倫理的響きを含んでもいる。
この、オーステリティなる言葉を含む記事が5年前(2004年8月5日~2005年8月5日)に世界中で何本登場したか、データベースのFactivaを用いて調べてみると、7199本だった。
5年後の2009年8月5日から2010年8月5日までについて同様に数えてみたら、実に5万2883本。7倍以上増えている。これこそは時代のバズワードであろう。
the Westは富裕の代名詞であり、米国はそのチャンピオンだったのに、軒並み金欠に苦しんでいる。
こんな場合に切られるのはバターよりガンであるのが常だから、例えば英国で深刻な議論となっているのは、独自の核抑止力を持ち続ける必要の可否を巡ってだ。米軍の装備も、しばし充実発展をやめざるを得ない。
