福島第一原発事故で避難生活を続ける「原発難民」を再訪した報告を続ける。拙著『原発難民』(PHP新書)で書いた、福島県南相馬市から汚染を避けて避難生活を続ける人々を再訪している。3月上旬、南相馬市から山形県に避難していた石谷貴弘さん(43)一家を訪ねた。事故からずっと2年半、不自由な避難生活を耐えていた石谷さんが、福島市に戻ったのはなぜか。なぜ南相馬市ではなく福島市なのか。その理由を知りたかった。
過酷な避難生活で気を失った
前回、山形県飯豊町から引っ越した石谷さんのアパートを訪ねたことを書いた。新しい避難住宅は避難先の山形県とも故郷の南相馬市とも関係のない福島市だった。山形から福島市に引っ越したのは2013年8月だ。
福島駅からタクシーに乗って15分ほどだった。アパートの前で、三男の流星君が迎えてくれた。見違えた。原発事故の直後、1年生になったばかりだったのに、もう4年生だ。その頃は幼い「子ども」だったのに、赤と青のサッカーユニフォームが似合うたくましい「少年」に成長している。
「4年生では一番でっかいのかな?」
私たちはコタツを囲んで座った。石谷さんは流星君をうれしそうに見つめた。石谷さんも身長が高いので、似たのかもしれない。会話は、そんな話から始まった。
会うのは半年ぶりだった。その後体にお変わりありませんか、と私は尋ねた。石谷さんが2012年暮れに大量に吐血し、入院したことを知っているからだ(「『南相馬に単身残留』で引き裂かれる家族」)。
「・・・まあ・・・原町との往復は確かに楽になったんだけど・・・」
「原町」は南相馬市の合併前の旧名だ。事故前からの勤め先のある南相馬市に石谷さんは「単身残留」し、奥さんの優子さん(46)と2人の子どもを山形に避難させた。自宅付近の線量を測ると、どうしても成長盛りの子どもたちを住まわせることはできなかった。
事故前、石谷さんは故郷の南相馬で鋼材を運ぶトラックの運転をしていた。水素爆発のあと、一家5人をクルマに乗せて脱出、峠を越えて「中通り地方」に逃れた。が、避難所はどこも満員。さらに山を越えて山形に行っても、事態は変わらず、避難所を転々とした。疲れ果てて最後にたどり着いた山間部の小さな町が飯豊町だった。