これまで2回にわたり、人手不足が深刻化する介護の現場で外国人の労働力が存在感を増していること、そしてそれを取り巻く課題についてリポートしてきた(第1回:「深刻な人手不足の介護現場で評価が高いフィリピン人」、第2回「日本人夫と離婚、介護士として生きるシングルマザー」)。

 最終回の本稿では、十数年にわたり都内で介護の仕事に就いているフィリピン人女性のこれまでの歩みについてお伝えしたい。

 話を聞いたのは、佐川マリアさん。以前は在日フィリピン人の介護関係者らで構成される「在日フィリピン人介護士協会(LFCAJ)」の会長を務めたこともある介護のベテランだ。

エンターテイナーとして来日、結婚・出産

 都心の駅前で待ち合わせをしたマリアさんは、背筋がすっと伸び華奢な体型に、薄化粧だが華やかな顔立ちだ。でも、人懐っこい笑顔を見せてくれ、とても話しやすい雰囲気を持っている。

 マリアさんはフィリピン北部ルソン島のパンパンガ出身の46歳。日本に住んで20年以上で、夫は日本人だ。

 マリアさんは1980年代、18歳の時にエンターテイナーとして来日し、埼玉県に住み都内のパブで働いた。来日前は、地元パンパンガの高校を出てから、専門学校で洋裁や美容を学んだ後、マニラのエアロビクススタジオでアシスタントとして勤務していた。

 80年代は多数のフィリピン人女性が日本に出稼ぎに来るようになった時代だが、エンターテイナーとして来日するにはオーディションがあるためダンスや歌のスキルが欠かせず、エアロビクススタジオには日本行きを希望する多くの女性が集まっていた。

 その環境の中では日本に行くことが半ば一般化しており、マリアさんもこの流れに乗り来日したのだった。

 だが、足を踏み入れた日本は「怖いところだった」(マリアさん)。マリアさんはダンスが得意だったため、エンターテイナーのオーディションを受け、「踊るだけ」だと思って来日したという。

 しかし、実際にはパブなどで、客の隣に座って接客することになる。マリアさんは酔客を相手にした接客になじむことができず、すぐに「辞めたい。フィリピンに帰りたい」と感じた。