先週の環球時報英語版に感慨深い記事を見つけた。皆さんは1966~76年に中国全土で吹き荒れた文化大革命の悲劇を覚えているだろうか。毛沢東に忠誠を誓った10代の紅衛兵たちが手当たり次第に教師や知識人を集団で吊るし上げ暴行・殺害を繰り返した、「文革」である。

 あれから50年近くの歳月が流れた。現在紅衛兵の多くは60代後半となり、人生の黄昏を迎えている。その元紅衛兵たちが、文革中に犯した様々な悪行について、しかも公の場で次々と謝罪し始めたというのだから、心底驚いた。謝罪は本心なのか、それとも、中国お得意の新たな政治運動が再び始まったのか。(文中敬称略)

紅衛兵たちの懺悔

 報道によれば、1966年当時女子高生で紅衛兵運動のリーダーの1人だった宋彬彬が1月12日北京で文革を反省する会合を開き謝罪したという。彼女を含む約20人の元紅衛兵が北京師範大学付属高校に集まり、当時の副校長の銅像の前で涙を流して懺悔したのだそうだ。

 宋彬彬は人民解放軍の長老である宋任窮大将の次女。名前を言われても分からない、という向きもいるだろう。それでは、当時の毛沢東主席が天安門で接見した若い女性の紅衛兵、あの可憐な女子高生が彼女だった、と言えばピンとくるかもしれない。

 宋彬彬は文革開始直後から紅衛兵を組織し、教師や知識人を攻撃し始めた。8月5日には当時の副校長が撲殺され、それ以降中国全土で紅衛兵による教師・知識人への迫害が始まった。あれから半世紀、最近では当時の加害者たちが文革中の自らの違法な暴力行為について公に語ることはまずなかった。

 日本の一部報道は、このような文革に対する謝罪の動きに、最近習近平政権が展開している「毛沢東を模倣した政治運動」を牽制する意図を読み取ろうとする。習近平のやり方は「文革再来」にほかならず、改革派知識人を中心にそのような懸念が広がっているのだという。本当にそうなのだろうか。

 筆者はかくも単純な結論など信じない。文化大革命は決して底の浅い政治闘争ではなかった。筆者と同年代、すなわち1950年代に中国で生まれた若者たちを、世代全体として、文化的に、倫理的に、そして精神的に、徹底的に堕落させた、恐らく中国現代史上最悪の破壊活動の一つだと思うからだ。

 年末年始にパソコンのハードディスクを整理していたら、筆者が北京在勤中の2003年に書いた文化大革命に関する小論が出てきた。そう言えば、こんなものを書いたこともあったなぁ。今読み返してみても、意外に新鮮だ。これを再読すれば、最近元紅衛兵たちが懺悔を始めた理由も見えてくるかもしれない。

 昨年還暦を迎えたせいか、今年はこの「中国株式会社の研究」も初心に戻り、時事ネタもいいが、中国というシステムの本質的な矛盾をより掘り下げて取り上げるべきだと思うに至った。というわけで、今回から何回かに分けて、この文化大革命に関する筆者の古い小論の全文をご紹介することにしたい。

 以下の小論を書き終えたのは2003年春、当時は暇さえあれば、北京などに残る文化大革命の痕跡を探し回っては、1960年代以降の中国人の精神衛生と文革との関係を真剣に考えていた頃だ。10年前の筆者を取り巻く知的雰囲気を感じ取っていただきたいので、文章は執筆時そのままで再録させていただく。

中国庶民と文革(仮題)ver3.0

はじめに - 私の問題意識

 日中国交正常化三十周年の2002年9月、私はひょんなことから1969年版の北京市交通路線図を手に入れた。文革時代に紅衛兵が改名した「人民公園、反帝路、反修路」などの滑稽な革命的地名・道路名がそのまま載っている珍品である。この一枚の地図を見た時から、私は全くの興味本位*1から、この「文化大革命」についてもっと知りたくなった。

 ところが、何処の本屋を探しても文革関係の書物は殆ど見当たらない。昔は多くの告白本や回想録が出版されていたというのに・・・。店員に聞いてみたら「今は売らないことになっている(現在不譲売)」そうだ。「何故か」と尋ねても、口を濁して「判らない」としか答えない。もう大衆の関心が薄れて売れないのか、それとも、あの文革には今でも(もしくは今こそ)封印しなければならない部分があるのか。

*1=当時「造反有理」は日本の学生運動にも大きな影響を与えていた。連合赤軍の永田洋子も毛沢東思想による影響を認めている。