平安時代から汁ものの薬味とされていた

 日本人とわさびの歴史は、文献上では古く7世紀までさかのぼることができる。奈良県明日香村の飛鳥京跡には、日本最古の本格庭園跡とされる「苑池遺構(えんちいこう)」がある。そこで出土した7世紀後半の木簡に「委佐俾(わさび)三升」と記されている。この木簡は、わさびを保管するときの標識とされる見方もある。

 だが、どのようにわさびが使われていたのかは分かっていない。その後も、715年に成立した『播磨国風土記』に「山薑(わさび)」の文字が見つかっている。また、10世紀初頭の延喜年間に成立した日本最古の薬草事典『本草和名(下巻)』には「山葵(わさび)」の文字があり、葉が葵に似ているためこの名であるといったことは書かれている。だが、いずれも使われ方について詳しくはない。

 927年完成の律令集「延喜式」には、若狭、越前、丹後、但馬、因幡、飛騨といった各地からわさびが租税として都に納められていた記述がある。当時すでに価値のある植物であったことをうかがわせる。

 その後、ようやくわさびの食としての使われ方を考える手がかりが見られるようになる。平安中期、931~938年の承平年間、学者の源順(みなもとのしたごう、911~983年)が編纂した辞書『和名類聚抄』の巻第16で「飲食部」の「薑蒜類(きょうさんるい)」に、「芥(からし)」「薄荷(はっか)」などとともに「山葵(わさび)」が記されている。食用植物の項目では「芋類」「葷菜類」「園菜類」「野菜類」などがあるなか、わさびがやはり香辛料として使われていたことが分かる。

 平安時代の饗宴料理を伝える、鎌倉時代成立の『厨事類記(ちゅうじるいき)』において、ついにわさびの食べ方を想像できるようになる。ここでは、寒汁(ひやじる)に入れる具として、「山薑(わさび)」を、夏蓼(なつたで)、板目塩(いためしお)、薯芋(やまのいも)のとろろ、橘葉(たちばなのは)などと同じ皿に盛って加えおく、といった記述が見られる。汁物料理の薬味として使われていたのだろう。

 現代の私たちにとっては、わさびというと刺身の薬味を思い浮かべる。この組み合わせの源流とも言えそうな食べ方が、室町時代の公家料理書の1つ『四条流包丁書』に見られる。ここには、鯉は山葵酢(わさびず)、鯛は生姜酢、鱸(すずき)は蓼酢などと記され、わさびを酢と混ぜて、それを鯉の刺身とともに食べていたことが分かる。