ニッケイ新聞 2013年11月5日~14日

(1)76人、いざドミニカへ=移民は国境の“防塁”

 1956~58年、1道7県の249家族1319人がドミニカ共和国に農業移住した。八つの移住地に配耕されたが、“カリブ海の楽園”と謳われた募集要項とはあまりにかけ離れた現地の状況に嘆願書が提出され、62年には多くが帰国、もしくはブラジルをはじめとする南米各地に再移住する「戦後移住史上最悪のケース」となった。

サントドミンゴ市内にある市営墓地にある慰霊碑の前で(10月21日撮影)

 2000年、日本政府に起こした裁判は内外に多くの反響を呼ぶ一方で、わずか1000人の現地コロニアに複雑なわだかまりを残している。今回幼少時にブラジルに転住した参加者もおり、郷愁のなか51年ぶりの再会を喜ぶ姿が、各地で見られるまさに「ふるさと巡り」となった。

 当初の募集人数50人を超えたことから、コロンビア・ボゴタ経由、ペルー・リマ経由の二手に分かれた。記者が乗り込んだ早朝6時半発のタカ航空は悠々とアンデス山脈を越え、リマのホルヘ・チャベス空港へ機体を傾けた。

 曇天が多いという海岸砂漠地帯の灰色の景色は1899年、南米初の移民船「佐倉丸」で到着した790人のペルー移民にどのような印象を与えただろうか。辛酸を舐めたその後を暗示するような光景を北上する機窓から眺めつつ、手元に目を落とし、「カリブ海の『楽園』ドミニカ移住三十年の軌跡」(高橋幸春著、87年、潮出版社)を開いた。

 カリブ海に浮かぶドミニカ共和国は、エスパニョーラ島の東側にある。面積は九州に高知県を足したほど。スペインから1865年に独立して以来、混乱を極めたが、1930年のクーデターにより大統領に就任したトルヒーリョ将軍は、島の西部にあるハイチとの関係に頭を悩ませていた。軍事衝突が頻発、人口流入に悩まされていたことから、国境地帯を開発する方針を固め54年、労働力にスペイン移民を導入するなどの背景があった。

 当時、外地からの引き揚げもあり、日本は失業者で溢れかえり、人口削減は喫緊の課題だった。駐日ドミニカ大使からの打診を受けた日本政府は早速対応を始めた――。

 同日夕方、赤道を越えドミニカに到着。むし暑い。体を伸ばしつつ入管でパスポートを渡すと、女性の係官が「ブラジルに住んでいるのか」と聞いてくる。首肯すると、「ペンはあるか」というので渡すと、何かを書いている。カウンター越しに覗くと、RNEの番号を書き付けているのは、明らかにノートの切れ端。

 忘れずペンを取り返し、空港ターミナルで100ドル分の両替をすると計算より多い。数え直していると「ぺルドン・・間違えた」と後ろに立った上司の手前、バツの悪そうな顔をする銀行職員。

 ドミニカ、なかなかに手強そうである。

 ドミニカと言うと、「それはどっちの方ですかな?」と物知り顔で聞かれることがある。というのもカリブ海には「ドミニカ共和国」(Republica Dominicana)と「ドミニカ国」(Commonwealth of Dominica)があるのだ。後者は旧英国領で現在はイギリス連邦の一員。本連載では「ドミニカ」と表記するが、言うまでもなく前者である。ちなみに日本語では「土弥尼加」。