日本に“激辛”料理が生まれなかった理由

唐辛子から見る日本ピリカラ論(前篇)

2013.07.26(Fri)漆原 次郎

 また、すこし遅れて1697(元禄10)年に出された『農業全書』という農業書にも、唐辛子について「大あり、小あり、長き、短き、丸き、角なるあり、そのしなさまざまおほし」と記されている。

 農業書だけでない。1712(正徳2)年に成立した図入りの百科事典『和漢三才図会』には、唐辛子が「数品あり、筆頭の如く、椎子の如く、梅桃のごとく、さるがきの如く、或はすずなり、或は上に向かふ、生は青し、熟は赤し、或は黄赤色の者もあり」と記されているのだ。

 これらはいずれも、唐辛子の大小、形や育ち方などの多様性を示している点で共通している。最も早く唐辛子が伝来した説をとっても、伝来からわずか150年ほどの間に、日本の唐辛子は様々な種類に広がっていたのである。

 ちなみに、『農業全書』と同じ年に出た、食用や医用の植物解説書『本朝食鑑』では、「多食すると、血を破り、眼を損ない、瘡毒を動かす」と、“唐辛子の食べ過ぎに注意”を示している。これも多食をしていた人がいることを示す証しになりそうだ。

大都市近郊で唐辛子栽培、七味も誕生

 江戸時代、いまの東京や関西の人びとが「こんなところで」と驚くような場所で、唐辛子は育てられていた。

 江戸では、新宿の先の甲州街道沿いが唐辛子の産地だった。信州高遠藩(いまの伊那市高遠)の初代藩主だった内藤清枚(1645~1714)が、1699(元禄12)年に江戸郊外に内藤新宿という甲州街道の宿場を開いた。内藤新宿から甲州街道にかけての道沿いには、唐辛子の畑があり、当時はこの一帯が唐辛子の産地だったと言われている。

 一方、京都では伏見が唐辛子の産地となった。1684(天和4)年に刊行された山城国(いまの京都府南東部)の地誌『雍州府志』には、唐辛子について「山城の国、伏見辺りで作られたものが有名」と記されている。いまも伏見は、「伏見甘」と呼ばれる、長くて辛くない唐辛子の産地である。

 もちろん新宿も伏見も、いまに比べればのどかな田舎だったに違いない。だが、江戸や京都という大消費地の近くで唐辛子が栽培されていたのである。唐辛子は大消費地で消費される人気の野菜だった。そう考えるのが自然だろう。

 実際、新宿や伏見で唐辛子栽培が始まるより前から、江戸や京都などで唐辛子を使った薬味が誕生している。いまも人びとに愛用されている「七味唐辛子」である。

 1625(寛永2)年、江戸・両国橋付近の薬研堀(やげんぼり)で、からしや中島徳右衛門(生没年未詳)という人物が、唐辛子、焼唐辛子、芥子の実、麻の実、粉山椒、黒胡麻、陳皮の7種類の薬味を混ぜ合わせた「七味(なないろ)」を売り出した。その後、江戸の街に、調合して七味唐辛子を売り歩く行商の姿が見られた。当時、この七味唐辛子は調味料というよりも、薬の一種として考えられていたようだ。なお、中島が開いた店は1943(昭和18)年に、浅草に居を移し、いまなお「やげん堀」として七味唐辛子を売り続けている。

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