「Sukiyaki」が全米ナンバーワンヒットを記録してから、6月15日でちょうど50年となる。もちろん、「Sukiyaki」とは、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」のことだが、音楽業界誌ビルボードのシングルチャートで1位を獲得した日本語の曲は後にも先にもこれ1曲だけ。
当時は、ロネッツの「イッツ・マイ・パーティ」やジャン&ディーンの「サーフ・シティ」といった曲が大ヒットしており、いまや、世界中の人々にとって「Sukiyaki」はそれらとならぶオールディーズの定番となっている。
黒四ダムに立ちはだかった出水、映画には五社協定
1963年と言えば、翌年の東京オリンピック開催に向け、建設ラッシュが続いていたころ。同じ6月には、黒部川の秘境の地に造られた巨大ダム「黒四ダム(黒部ダム)」も完成している。
1956年の着工から7年、171人もの犠牲者を出した工事の難しさは、いま「関電トンネル」と呼ばれトロリーバスが走るトンネルの掘削に懸けた男たちの物語『黒部の太陽』(1968)からも感じ取ることができる。
文部省推薦となったこの映画を学校での観賞会などで見た記憶のある方もおられることだろう。しかし、この映画が完成に至るまでの道のりは、ダム工事同様、苦難に満ちたものだった。
1963年1月、日活の大スター石原裕次郎は独立プロ、石原プロモーションを設立した。そして、日活との共同製作作品に続き、三船敏郎の設立した三船プロダクションと『黒部の太陽』の共同製作を発表する。
ところが、そこに立ちはだかったのが「五社協定」という怪物。以前「『巨人大鵬卵焼き』を生んだ昭和という時代」で田宮二郎のケースをご紹介したが、大手映画会社のスターや監督が無断で他社作品に出られない仕組みである。
会社との軋轢を恐れた映画人たちは尻込みし、窮地に追い込まれた裕次郎たちは宇野重吉に相談を持ちかけた。この映画に、宇野の属する劇団民藝の滝沢修や大滝秀治をはじめとした重厚なる面々が出演しているのは、そういった事情もあるのだ。
結局、紆余曲折の末、最後は日活が配給することとなり作品は完成、公開されるのだが、日本の映画製作システムに変化の時が訪れたことを世に知らしめることとなった。
その後、「映画館の大きな画面で見てほしい」という裕次郎の意図もあって、1979年を最後にテレビ放映もされず、たまにイベントなどで上映されても1時間余りカットされたバージョンばかりという状況が続き、長い間、この映画は「幻の名画」となっていた。