なぜヨーロッパは戦争に明け暮れたのだろうか。
様々な理由が考えられるだろうが、最初に思いつくのは、要となるローマ帝国が衰退するとともに、その先には海しかないユーラシアの半島のような狭い地域に、人種や言語の異なる多民族が東から順に押し込まれてしまったという結果である。
生産性の低い麦がもたらした紛争
意思疎通がうまくいかない雑居集団の相隣関係では、争いの種は尽きまい。その中でも、人間生活で最も切実な食物に問題が関われば、争奪戦も深刻なものになっただろう。
食えるか食えないかの問題(貧困の問題と置き換えてもよい)は、少なくとも1500~1600年代頃までは、生産性の低い作物と土地とに向かい合わねばならなかったヨーロッパの宿命だった。南欧を除けば、カロリー源のオリーブの恩恵にも与(あずか)れない。
温暖だった中世前期が終わると、地球規模の寒冷期が到来した。1300年代から1700年代にかけて、ヨーロッパでは、それでなくともアジアのコメに比べて生産性の低い麦の収穫が影響を受ける。そこで人口と食糧のバランスが崩れてしまう。
1300年代は大飢饉やペストの襲来で、ヨーロッパの人口の3~4割が失われている。食糧不足が栄養不足となって人間の免疫力が失われていたことも、ペスト大流行の原因だったようだ。
続く1400年代も経済や社会は停滞する。フランスをはじめとして厳冬での飢饉が発生し、英国でも国内で30年にわたる薔薇戦争が勃発する。満足に食えなくなれば、それが差し迫った飢餓への不安を醸して、奪う・奪われるという思いにとり憑かれていく。
大航海時代が始まったのは、この悲惨な頃からヨーロッパの寒冷化がさらに厳しくなる1500年代にかけての時期である。
オスマン・トルコを迂回する新たなアジアとの交易(綿布、生糸・絹織物、香料)経路開拓は莫大な利益をもたらした。アジアに向けての大航海の動機として、歴史の教科書ではこれが最初に挙げられている。
確かに、希少品の扱いはどの時代でも儲かる。かなり後の1600年代の末でも、フランス印度会社は中国で仕入れた絹をヨーロッパで3倍以上の価格で売りさばいていたという。粗利益率200%である。何ともいい商売だ。ならば、船便のもっと少なかったその150~200年前なら利幅はさらに大きかっただろう。