最近、米国の生理学者(兼生物学者)J・ダイアモンドの著作が注目されているという。人類史を鳥瞰したうえで、多くの民族の盛衰を規定してきたのは環境条件であって、生まれ持った人種の特性がそれを決めたわけでは決してない、という結論を導いていく。
彼と対談した生物学者の福岡伸一氏は、ダイアモンドのスタンスが発展史観ではなく生態史観であるとも評している。発展には格差がつきものだが、生態ならそうした比較は意味をなさない、ということだろう。
西欧の軍事的・文化的支配力を生じさせたもの
学問としての区分けをするなら、むしろ文化人類学や社会学に近いようで、証明や立証が大変難しい世界である。不可能と言ってもよいかもしれない。それに、環境決定論と見なされるその立場への批判があることも、ダイアモンド本人が重々承知している。
だが、それでも何となくもっともらしい説明がついて、生まれ持った人種の優劣などは元々存在などしないのだ、と上辺だけではなく納得できるのであれば、それはそれでなかなか面白い。
そのダイアモンドの論に従えば、歴史上に現れるヨーロッパ(正確には西欧)の支配力も、そして現在世界を支配している彼らの考え方も、いくつかの偶然が重なってもたらされたものに過ぎない。
特に、長らくヨーロッパに対して自分たちの後進性への引け目を感じてきたほかの世界(ロシアもアジア諸国も)にとっては、大いに留飲の下がる議論だ。ではダイアモンドに倣って、環境決定論の立場からヨーロッパの「先進性」なるものを眺めてみたらどうであろうか。
歴史を繙(ひもと)くと、ヨーロッパは1500年代から1700年代にわたるおよそ250年間で、新大陸・アジア・アフリカを植民地化して支配権を確立していった。それが可能だったのは、彼らにとりわけ崇高なる人徳が備わっていたわけでもなければ、札びらを切れたからでもない。武器(火器)とその使い方での優越性を持っていたからだ、と多くの研究者が認めている。
ならば、なぜヨーロッパが優越する武器を生産し持つことができたのか。結論を先に述べてしまえば、彼らが戦争を散々やらかしていたからだ、ということになる。戦争は非文化的な野蛮な行為であり、そして同時に発明の母でもある。
それでもヨーロッパ人の立場なら、自らの歴史を語るに際して戦争が生んだ肯定的な面を強調したくなるだろう。それをなぞると、彼らが成し遂げた軍事、科学、産業の3つの革命に行き当たる。
まず、1500年代半ばに生じたとされる「軍事革命」について。これは、新兵器の登場が戦争のやり方を大きく変えていったことを指している。
専門家によれば、騎士密集隊形から弓矢・火器の使用へと移ることで戦術が変わり、軍隊が大規模化し、その運用での複雑な戦略が要求されるようになる過程である。さらに、軍隊が大きくなればそれだけ戦費も損失も拡大していく。
平たく言えば、銃や砲が多用されれば敵味方の犠牲が増え、損耗率が高くなるから兵隊の数を増やし、勝つためには銃の数もさらに増やすことになり、その経費が雪だるま式に嵩(かさ)んでいく、という流れだ。