AsiaX(アジアエックス) 2012年10月18日
「ブキバトの慰霊塔 1942年、日本軍は『昭南忠霊塔』の建立を連合軍捕虜に命じた。
日本軍戦死将兵を祭るこの慰霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ約12メートルの木造の塔であった。
また捕虜らは英軍連合部隊戦死将兵の霊を弔う高さ約3メートルの木造の十字架を昭南忠霊塔のうしろに建てた。『昭南忠霊塔』は1945年、連合軍がシンガポールに上陸する前に日本軍によって取り壊された」
これはブキバト・ヒル(Bukit Batok Hill)の小道に続く階段上にある、記念碑に刻まれた碑文です。
ブキティマの戦闘後に建てられた慰霊塔
第二次世界大戦中の1942年、日本軍と連合軍がブキティマ・ヒルで激しい戦闘(Battle of Bukit Timah)を繰り広げた末、2月15日、シンガポールは遂に陥落。
英極東軍司令官アーサー・アーネスト・パーシバル中将(Arthur Ernest Percival)が12万5000人の残存兵とともに、マレー作戦を指揮した日本軍司令官の山下奉文(ともゆき)に降伏宣言したのが、この近くのフォード自動車工場でした。
同年、日本軍は連合軍の捕虜に命じて、日本軍戦死将兵たちを祭るため小さな神社を併設した慰霊塔を建立しました。
その際日本軍の許可を得て、捕虜たちは連合軍戦死将兵たちのための十字架を慰霊塔の後ろに建てたことも記録されています。
その後3年間、日本はシンガポールを占領し、その間植民地として昭南島と呼びました。しかしそれは1945年に終焉を迎えます。連合軍が反撃を開始し、再びシンガポールに上陸する前、日本軍は自らの手でこの昭南忠霊塔と十字架を破壊しました。
残されたのは参道とそこに続く階段だけです。階段を上りきったところにあった慰霊塔も十字架も痕跡はありません。慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は日本人墓地に移されたということです。