AsiaX(アジアエックス) Vol.207(2012年03月05日発行)より
26年前、記者が初めてシンガポールでエンプロイメント・パス(就労ビザの一種)を申請したときに訪れたのが、今回取り上げるアジア文明博物館の前身、エンプレス・プレイス・ビルでした。
植民地時代に建てられた他の建築物と同様、どっしりとした荘厳な趣き、高い天井、アーチ型の窓や幅広い階段などに宗主国・英国の伝統が感じられます。
場所はビルの名前「エンプレス・プレイス」が示すとおりで、スタンフォード・ラッフルズ卿が上陸した地点として知られています。
ビクトリア・コンサートホールやスタンフォード・ラッフルズ卿の像などが隣接しているのはご存知のとおり。ひと昔前までこのあたりはシンガポール川の河口で、海から船で上陸するとまず目に入るのがこの一帯だったのです。
150年前に建設され役所として活躍
エンプレス・プレイス・ビルをデザインしたのはコロニアル建築の第一人者であったJ. F.マクネア(McNair)氏で、その頃建てられたほかのビルと同様、建設に従事したのは囚人の労働者たちだったそうです。1860年代のことでした。
建設費は5万3000ポンドだったと記録されており、現在の為替レートで計算すると680万円ほどになります。
ネオ・パラディアン様式と呼ばれるデザインで、エントランスや窓の周囲の装飾などに特徴が見られます。
これはもともと16世紀のヴェニスの建築家・パラディオがデザインした様式ですが、その後イギリス人建築家らが引き継いでおり、シンガポールでもラッフルズホテル、シンガポール博物館、それに旧日本人会の建物にも取り入れられていたそうです。
エンプレス・プレイス・ビルは長年、植民地政府の役所として使われていましたが、20世紀初めには移民局となり、ここで出生届、死亡届を提出していましたし、結婚登録も受けていました。
シンガポールが独立した1965年以降も移民局はここでその役割を継続していましたが、1987年に老朽化したビルから移転し、その後ビルは増改築されました。