トヨタ生産方式が故大野耐一氏の思いとは異なる方向に進んでいく実態を憂い、「本流トヨタ方式」と題してこのコラムを書き始めてから丸3年経ちました。

 前回から本論に話が進み、「自働化」の話に入りました。前回、「本流トヨタ方式」では、安全を「品質」の中に包含して管理していく旨をお話ししました。今回は「自働化」の原点である、1924年に完成した「G型自動織機」と、豊田佐吉翁が苦心した点についてお話しします。

欧米列強と張り合っても工業レベルは低かった日本

 1924(大正13)年当時の日本は、どのような状況だったのでしょうか。

 第1次大戦(1914~19年)は欧州が主戦場であったため、日本は漁夫の利よろしく中国に進出します。大戦後に設立された国際連盟では、日本は有色人種国でありながら欧州列強に並ぶ常任理事国となっていました。

 戦後の好景気に沸き、欧米の流行を若い世代が追い求め、女性の洋装化が進みました。この頃、「大正デモクラシー」「モダンボーイ(モボ)」「モダンガール(モガ)」という言葉が流行っていたと言われています。

 しかし、当時の工業レベルはまだまだ低く、自動車はいくつかの会社が国産車を作ろうとして試作を重ねていた時代でした。

 一方、米国は第1次大戦で戦場だった欧州に武器を売り、巨大な富と工業力を手に入れ、それまでの英国に代わって世界の覇者になっていました。

 自動車ではT型フォードが1908年に発売され、いわゆるフォード方式と言われるコンベア生産システムを開発、1924年には累計生産台数が1000万台を超えています。それほど工業化が進んでいた一方で禁酒法が敷かれ、マフィアが暗躍する時代でもありました。