闘いは準備を重ねていたデルタ優位で進む。日航にとって太平洋路線の重複が多いデルタとの提携は、国際線事業のリストラを描きやすい。そして、より強力なデルタ陣営に移籍した方が中長期的な成長戦略を描きやすいためだ。
日航社内では改革を求める若手中心にスカイチーム移籍案への支持が広がる。企業再生支援機構も2010年1月、支援決定の前提となる再生計画の原案で「デルタとの提携効果は独占禁止法の適用除外(ATI)を取得できた場合で172億円、取得できない場合でも92億円」と試算。デルタとの提携が「アメリカンとのATI取得による提携効果54億円」を大幅に上回ることを示し、スカイチームへの移籍を後押しした。
ヒラメ体質? 稲盛会長の一言でアメリカン陣営残留に傾く
日航は1月19日、会社更生法の適用を申請し、同時に企業再生支援機構の管理下に入った。デルタ航空陣営への移籍はもはや秒読みに入ろうとしていた。
だが、流れは稲盛氏の会長就任で大きく変わる。
稲盛氏は2月1日の就任会見で、提携先は新体制で白紙から決めると言明。既に日航社内では「営業畑」「平成入社組」を中心にデルタ陣営への移籍を求める声が多数派となりつつあったが、アメリカン陣営への残留を望む「国際畑」「昭和入社組」の声も根強く、両陣営の支持者で討議する場を設けることを決めた。
日航や機構幹部、管財人代理らの立ち会いの下、第1回「ディベート」が開かれたのは2月4日。その会合の中で、稲盛会長が「移籍のリスクは本当に大丈夫か」とデルタ支持派に念押しした直後、デルタ優勢の雰囲気は崩れたようだ。問われた側は答えに窮して沈黙、「流れが変わったように見えた」(出席者)という。
結局、その日の討論で結論は出なかったが、稲盛会長は閉会にあたって、「私自身は移籍しない方が良いように思う」との見解を示した上で、「週明けまでに日航幹部で決めてほしい。決断した場合は、どちらを選んでも私が責任を負う」と発言。そして、京都に帰っていったという。
翌2月5日、日航のプロパー幹部らは会議を開催。アメリカン支持に転じる動きが出る一方、この時点では週明けに2回目のディベート開催を求める声もあり、デルタ支持派には巻き返しを模索する動きがあったもようだ。
稲盛会長の言葉に動かされる形で、JALはワンワールド残留を決めた〔AFPBB News〕
しかし2月7日夕、「稲盛会長がアメリカンを支持」との記事が流れる。直後に取材合戦は過熱。「日航がアメリカンとの提携を維持する方針を固めた」と報道されるのと相前後して、日航幹部間の意見集約も進む。その結果、「この夜に日航としての方針は完全に固められてしまった」(関係者)。
翌8日、日航には新たな執行役員らが着任し、提携についても協議されたが、稲盛会長の意向が報じられた後では、デルタを強く推す声は出なかった。そして2回目のディベートが開催されることもなかった。
もはやリスク冒せず
稲盛会長の意向に動かされる形で、決定は下された。

