来る10月1日は中国建国60周年の「国慶節」である。当日の白眉は何と言っても10年ぶりに行われる軍事パレードであり、近代化著しい人民解放軍の雄姿が披露される予定だ。
しかし、その戦力強化をことさら世界に訴えることは、国際協調を旨とし、軍拡競争を否定する胡錦濤の「和諧世界」とマッチしないばかりか、いたずらに「中国脅威論」を煽ることにもなりかねない。
毛沢東は11年連続して実施(1949~59年)
振り返ってみると、中国は建国の1949年から10周年の59年まで11年連続して国慶節の軍事パレードを行ってきた。その後、長く途絶え、復活したのが建国35周年の84年であり、その次が建国50周年の99年だった。つまり、今までに計13回の軍事パレードが行われてきた。
13回のうち、最初の11回は毛沢東の時代である。朝鮮戦争(1950~53)参戦への士気を鼓舞するため、また第1次5カ年計画(1953~57)への景気づけ、さらに第1次(1954)・第2次(1958)台湾海峡危機などに示されるように台湾武力解放の臨戦態勢に向けて、毎年軍事パレードを実施する意味はあったのだろう。
59年以降、その後長期にわたり実施されなくなった理由を中国は明らかにしていない。だが、毛沢東が急速な工業化・農業の集団化を推進しようとして企てた大躍進政策(1958~60)の失敗で党の実権を劉少奇、鄧小平に譲らざるを得なくなり、経済政策の立て直しが必要になったこと、そしてその後、毛沢東の奪権闘争である文化大革命による混乱が軍事パレードの実施を妨げてきたことは察しがつく。
25年ぶりに復活させた鄧小平(84年)
84年には、59年から25年ものブランクを経て、鄧小平が軍事パレードを復活させた。その背景は、おおむね以下の通りだろう。
78年末の「中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(党11期3中全会)」で、鄧小平が毛沢東を後継した華国鋒に取って代わり、党の実権を掌握した。鄧小平は毛沢東の「階級闘争をカナメとする」継続革命路線に決別するとともに、計画経済から市場経済への漸進的移行を目指す改革開放路線に舵を切った。
鄧小平は党主席・国務院総理・中央軍事委主席を兼務していた華国鋒からの権力奪取を進め、80年には国務院総理を趙紫陽に、81年には党主席を胡耀邦に、同じく中央軍事委主席を鄧小平自らに移譲させた。82年の第12回党大会では華国鋒を政権中枢から排除し、ヒラの中央委員に降格させることで、鄧小平体制を名実ともに確立した。なお、この党大会で「党主席」は「総書記」に改められた。
こうして建国35周年の84年に、中央軍事委員会主席の鄧小平が軍事パレードで閲兵を行ったのである。当時すでに80歳の鄧小平にとり、この軍事パレードがまさに人生の頂点であった。
また、この25年間の中国の軍事力の変化は極めて大きく、核兵器、戦略ミサイル、原子力潜水艦を戦力化し、世界の軍事大国の一角を占めるまでになっていた。それを象徴したのが66年に創設された戦略ミサイル部隊である第2砲兵部隊のパレードへの参加であり、「東風5号」ICBM(大陸間弾道ミサイル)の登場だった。
江沢民による「世紀の大閲兵」(99年)
建国40周年に当たる89年は当然ながら軍事パレード実施の節目たり得たわけだが、同年6月に天安門事件が起きた。天安門事件で民主化運動を武力で鎮圧したことから、中国は世界中から批判の目を向けられることになる。その中での軍事パレードの実施は難しく、結局99年の建国50周年まで持ち越されるところとなった。