8月27日にロシア政府は「2030年までのエネルギー戦略案」を概ね承認した。

 ロシア政府が「2020年までのエネルギー戦略」を発表したのが2003年。ところが翌年の2004年から2005年にかけて政府内では早くもその改定が必要と指摘されていた。

2003年に風向きが変わった「エネルギー戦略」

 この「エネルギー戦略」は1990年代から何度か作成されたことがある。ただ、当時は単なる政府官僚の作文と見なされ、誰もそこに掲載された生産予想数量を真面目に取り合わなかった。しかし、前回の2003年から風向きが大きく変わった。

麻生首相が露サハリン訪問、露大統領とLNG工場の稼動式典に出席

ロシア極東のサハリン島コルサコフ近郊に建設された液化天然ガス(LNG)工場(2009年2月17日撮影)〔AFPBB News

 とりわけガス部門で生産目標値が意味を持つようになっただけでなく、ロシアのエネルギー分野での国家計画のニュアンスすら帯び始めていた。これがプーチン大統領(当時)任期第1期目の最終段階で作成されたことから、ガス分野での国家主導での生産戦略が徐々に鮮明になった時期と一致もしている。

 政府はエネルギー分野のみならず、こうした「戦略」を2008年には郵政、対外経済、運輸といった分野でも策定している。

 今回の改定までに6年も要したのは、主としてガスプロムが自社の長期生産計画をまとめ切れなかったことが理由と考えられる。そもそも将来予測がかなり難しい諸条件の中で、どう政策の柱となる数値を弾き出すかに苦労していたようだ。

 一方で民営化された同じエネルギー分野(TEK)の電力や石油・石炭の長期生産動向を予測しつつ、他方でかつての「5カ年計画」の色彩が強まる経済思想との整合性を取らなければならなかった。

 まず大きな問題は、東シベリア・極東の開発計画で、どのガス田をいつ開発し、どこに需要を求め輸送するのかだった。広大な国土の開発マスタープラン作りにも等しく、そこへ政府の極東開発案や、要望・希望満載の地方政府のロビーイング、中国を含めた太平洋地域へのガス輸出の可能性と予測まで加味しなければならない。

政府からつき返された戦略案

 さらには既にロシアに入り込んでいる外資など他社の牽制・排除が加わるのだから、長期計画作成に当たった実務担当者は、「もうどうにでもしてくれ」といった気にもなったろう。結局2007年4月、政府に対し18もの異なった案を選択肢として提出することになった。

シベリアの水力発電所で送水管破裂事故、11人死亡

設備の老朽化が原因? 2009年8月にシベリアの水力発電所で送水管破裂事故、11人が死亡〔AFPBB News

 18にも上る案というのは案が無きに等しいことを意味する。「要は何も決められていないではないか」と怒った政府側に案をつき返される一幕もあった。

 続く問題は、チュバイス社長(当時)率いるEES(統一ロシア電力)の分割民営化に伴う野心的な電力投資計画であり、この計画に沿った発電用ガスの供給をどう確保するのかで電力側と侃々諤々の議論が始まった。

 2007年中にはまとめなければならなかった長期計画の作成がこれでまた遅れてしまった。そうするうちにロシア経済が過熱の度を増し、将来のロシア経済の規模拡大が喧伝されたために、「ガスは足りるのか?」の大合唱に押されて新規ガス田開発の計画前倒し案も検討せねばならなくなった。