昔ここで戦争があった。

 今年の8月も、かつて起こった戦争を振り返り、犠牲になった方たち、そしてその時代を生き抜いた多くの方たちの心情に思いを馳せる機会を幾度となく持った。

 広島や長崎には原爆が落とされ、沖縄では本土決戦があり、東京だと大空襲があったりと、全国的に戦争の傷跡がクローズアップされるわけだが、実はどのまちにも何らかの傷跡が残っているものだ。

 あの時代、日本は全国民、全国土を挙げて戦争をしたのである。したがって、戦争が終わってから64年の月日が経過したにもかかわらず、今なおその痕跡が消え去ることはない。あまりにも多くの人が巻き込まれ、あまりにも多くの土地が巻き込まれたのだから。

 そういう傷跡を人は「戦争遺産」と呼ぶ。遺産というのは、遺産相続や世界遺産といったように、本来いいものを残してもらった時に使う言葉だ。だから悪いものの場合は、普通「負の遺産」などとマイナスのイメージを持つ修飾語をつける。

 戦争遺産は、もちろん人類の負の遺産である。戦争の傷跡を示すことで、戦争の悲惨さや無意味さを教えてくれる。昔、自分の立っているこの土の上で戦争があったという事実を。

「回天」の島で開催した哲学カフェ

 そんな戦争の傷跡が、私の住んでいる周南市にもある。とりわけ徳山港から西南10キロほどの位置に浮かぶ大津島には、人間魚雷で有名な「回天」の発射基地跡がある。約150人の若い兵士が回天に乗りこんで敵艦に体当たりし、命を失った。

 発射基地跡には県外からも毎年多くの人たちが訪れ、地元山口出身の監督の手になる「出口のない海」という映画の舞台にもなった。

 実はその大津島で、先日「哲学カフェ」を開催した。地元で島興しをされている方が、私が商店街で行っている、哲学を語るイベントに興味を示され、コラボレーションが実現したのだ。もともと哲学カフェもまちづくりの一環で行っていたので、思いが一致したわけである。テーマは「なぜ人は島に憧れるのか?」というもの。

 話の中で、島が生き延びていくためには、人が訪れるだけの資源が必要だという意見が出た。大津島の場合は、当然、回天の発射基地跡という戦争遺産を挙げることができるだろう。

 実際、島の玄関口には「ようこそ回天の島 大津島へ」といった大きな看板が立ち、観光マップも基地関連施設一色である。夏には海水浴場が開かれたり、ほかにも見所はいくつかあるのだが、回天の戦争遺産は、ここにしかない。まさに大津島の象徴的な存在なのだ。

誰もが感じる戦争へのやりきれない思い

 しかし、どうして人は戦争遺産を見に行くのだろうか。本来は悲しいモニュメントであるはずの傷跡をわざわざ見に行くなんて。