2009年7月8~10日、イタリア・ラクイラでG8サミット(主要国首脳会議)が開催された。サミット史上、今回ほど何が主要議題となるのか事前によく分からず、また成果について国際世論から期待されなかったサミットはないように思う。
その理由を考えるのは難しくない。何よりも、これまで世界の経済政策を事実上決めてきたG7(経済面では新興国のロシアは除く)が、今般の金融危機と世界同時不況に対し、自らだけでは対処できない実態が明白になったからだ。
従来は国際的な経済危機の原因をつくった新興市場諸国の経済政策を、米国や欧州が批判した上で是正を求めていた。だが今回は自ら危機を引き起こし、世界中に迷惑を掛けてしまった。この「威信失墜」が意味するところは大きい。
また、今年のサミット議長国であるイタリアの非力も、理由の1つに挙げられよう。主権国家の集まりとはいえ、もともとG7のメンバー国の間では交渉力に大きな差がある。超大国である米国、昔日の勢いはなくてもかつての覇権国である英国、そのライバルであったフランスは、常に国際的な議論を主導しようとする。
カナダはG7の中では小国であり、それ自体の影響力は大きくない。だが、英語圏にあること(仏語圏でもあるが)、そして米英(仏)との政治的・文化的な近さから、国際社会では巧みな立ち回りを見せることが少なくない。それに比べると、ドイツやイタリアは基本的に「受け身」になる。
そして、我が日本は米英仏より独伊に近い。国際社会を「他者」と見て、そこで言われていることが自国に都合が良いかどうかだけを基準として、行動する傾向が日本にはどうもあるようだ。
本当に都合が悪い時には身勝手と言えるほど反論するが、そうでなければ意見も言わずに従う。実際には自らの国益を守り、あるいは伸張させる方策を、米英などは「こうすることが国際社会のためになる」などと建設的に主張するが、日本はこうした強かさを欠いている。
「国際的なもの」への無邪気な信仰
幕末の逸話を紹介したい。坂本龍馬に言われて拳銃を手に入れた剣道の後輩に対し、坂本が「これからの時代はこれじゃ」と懐から万国公法を取り出してありがたそうに見せた・・・。
国連、あるいはG7やG20といった国際会議の議論に対する日本政府の態度やマスコミの論調を見ると、坂本のような「国際的なもの」に対する無邪気なまでの信仰が、現代の日本人にも根強いように思う。
国際社会における現実の議論は、そのような「きれいごと」では済まない。それは、北朝鮮の核実験やミサイル発射に対する国連の腰砕け対応を見ても明らかだろう。
結局、北朝鮮の存続というより、米国の同盟国である韓国による朝鮮半島統一の阻止を至上命題とする中国が拒否権を持つ以上、国連を通じて北朝鮮を決定的に追い詰めることなど不可能なのだ。
また、グルジアに侵攻したロシアに対しては、国際社会は何ができたのか。ほとんど何もできなかった。これも端的に言えば米国を含め世界のどの国にも、大国ロシアを相手に武力行使をしてまで問題を解決する気がないからだ。