戦後75年・蘇る満洲国(9)「極東のパリ」ハルビン 【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて 2020.9.29(火) 船尾 修 フォロー フォロー中 中国 ロシア 歴史 シェア0 Tweet この写真の記事へ戻る 1932年(昭和7年)に竣工した聖ソフィア大聖堂はハルビン市内で最も目を引く建築物だろう。いつ訪れても観光客がたくさんいる。中央のネギ坊主は高さ53メートル。最大2000人を内部に収容できるといわれている。ロシア人の多くはロシア正教(ギリシャ正教)の信者であり、ハルビン市内にもたくさんの聖堂が建てられた。 拡大画像表示 T字の形に敷設された東清鉄道。東西に走る本線と、ハルビン(Harbin)から南下する支線がある(出所:Wikipedia) 拡大画像表示 中央大街における建築のなかでおそらく唯一の日本人所有だった松浦洋行ビル。1920年(大正9年)の竣工で鉄筋コンクリート5階建てのこの建物は建設当時周辺で最も高いビルであった。創業者は滋賀県出身の松浦吉松で一代で財を築いたといわれている。日露戦争直後の1906年(明治39年)に早くも海外進出しウラジオストックに支店を置いた。ロシアへの絹織物、生糸などの販売を手掛けていた。現在は観光案内所になっている。 拡大画像表示 ハルビンで最も格式の高いホテルとして有名だったモデルン・ホテルは1913年(大正2年)に建てられた。創業者はロシア系ユダヤ人の大富豪ヨゼフ・カスペ。氏のひとり息子はロシア・ファシスト党のメンバーに拉致され殺害されている。ユダヤ人と日本人が集まった第1回極東ユダヤ大会がここで開かれた。また満洲国の実態を調査した国際連盟のリットン調査団はこのホテルに投宿している。現在でもホテル「馬迭爾賓館」として営業している。 拡大画像表示 典型的なアール・ヌーヴォー建築様式をもつ1921年(大正10年)竣工のカフェ・ミニアチュールはハルビンに暮らすユダヤ人たちの溜まり場であった。現在は日本資本のユニクロの店舗が入っているのがおもしろい。店の中へ入ってみたが、内部はすべて改装されているようで、100年前の痕跡を見つけることはできなかった。 拡大画像表示 1904年(明治37年)竣工の東清鉄道本社。現在は哈爾浜鉄路局として使用されている。建物の正面に建つ毛沢東像はもちろん中国共産党政権が樹立された後につくられたもの。このような大きな建物にもアール・ヌーヴォー様式が取り入れられたのがハルビンの街づくりの特徴である。ヨーロッパから見れば田舎者の扱いを常に受けてきたロシア帝国はこうして当時の最先端の建築デザインを取り入れることによりその劣等感を払拭したのだろうか。 拡大画像表示 東清鉄道本社と道路を挟んだ正面に建つ東清鉄道倶楽部。映画やダンスホールなど幹部職員の娯楽を提供するための場所であった。現在は哈爾浜鉄路局文化宮として同じような用途に使われている。中国人のおもしろいところは、病院なら病院、役所なら役所、学校なら学校と、かつて使用されていた用途に沿って現在も建物を使うことである。そういうところに中国人のしたたかさや合理性を見る思いだ。 拡大画像表示 1907年(明治40年)竣工の東清鉄道中央電話局。ハルビン駅の北側がプリスタンのキタイスカヤなど商業の中心地となったのに比べ、南側にはロシアの支配機構である東清鉄道関連の建物が数多く建てられた。1900年代初頭のこれら建築物はどれもが個性的で見ていて飽きない。ハルビンの持つ他の中国の都市とは違う独自性はこうした建築物によく現れている。 拡大画像表示 1900年(明治33年)に建てられた東清鉄道中央医院病棟。ロシアが満洲を支配下に置くためにまずやったことは清国から鉄道の敷設権を得ることだった。そして1898年(明治31年)に実際に東清鉄道の建設が始まると、鉄道の周辺に「鉄道附属地」を設定し、次々と建物を建てていった。日露戦争後に日本が満洲の統治に乗り出したとき、日本が真っ先に手掛けたのが満鉄を設立して鉄道附属地を設定することだったが、こうした手法はすべてロシアのやり方を踏襲したものである。 拡大画像表示 ハルビンで最初の日本人小学校である桃山小学校は1909年(明治42年)に開校した。往時を彷彿とさせる建物はそのまま残っている。最初は西本願寺付属小学校として開校し、そのときは児童数わずか4名だったという。その後1920年(大正9年)にハルビン尋常高等小学校となり、1936年(昭和11年)にハルビン桃山尋常高等小学校と改称されて、以来桃山小学校と呼ばれるようになった。現在は哈爾浜市立兆麟小学校になっている。 拡大画像表示 ロシア人はプリスタン地区などで競うようにしてアール・ヌーヴォー様式の建築物を建てていったが、中国人はハルビンの東北部に位置する傅家甸(ふーじゃでん)に中華バロックと称される独特の様式を持つ建物を建てていった。写真はその目抜き通りにある1920年代に建てられたかつての同義慶百貨店。外壁を飾り立てられた装飾が過剰であり独特の美しさを醸し出している。現在は「純化医院」という病院として使用されている。 拡大画像表示 ハルビン特務機関が置かれていた建物。特務機関は日本軍の特殊軍事組織で、諜報活動や宣撫工作などを主に担当していた。満洲各地に特務機関は置かれたが、それらを総括するのがハルビン特務機関だった。仮想敵国であるロシアとの国境が近い大都市ということでこの地に特務機関が置かれるのはある意味当然だった。 拡大画像表示 1918年(大正7年)に竣工したユダヤ教会(シナゴーグ)。ハルビンには最盛期に約2万人ものユダヤ人が居住していたため、中国国内では最大のシナゴーグが建設された。現在では哈爾浜市建築芸術館として開放されている。流浪の民であるユダヤ人は各地で迫害されたため離合集散を繰り返したが、ハルビンに滞在していた人の大半はその後アメリカなどに渡ったといわれている。 拡大画像表示