撤去が決まった少女像の再展示を求める人たち(写真:AP/アフロ)

 あいちトリエンナーレ「表現の不自由展 その後」の中止を巡って「何が起きていたか」式の解説を複数目にし、ただただ、ため息をついています。

 というのも、この展示やその中止も「政治的」でしたが、その収拾や解説も徹頭徹尾「政治的」な文脈からなされており、およそ「国際芸術展」としての本道から外れたものしか見当たらないからです。

(芸術の立場に立つ希少な例外があればご教示いただきたいです。またアート系メディアが誤った「表現の自由」程度の話で道に迷わないように、とも思っています)

 ジャーナリストを芸術監督に据え、「男女平等」など芸術そのものの内容とは別の切り口でのPRが奏功し、事前チケットも2倍の売れ行きであったことが報じられています。

 つまりこれは「動員ありき」であって、タレント性のある有名人を「芸術監督」に選び、一日駅長相当で営業成績を稼いだことが分かります。

 一芸術人としてこうした動きに早い時点から疑義を呈してきました。

 大学などでも、全く門外の人が突然「芸術」を言い出し、素人万歳といった風潮が存在します。しかし、リスクを評価できないのでヒヤヒヤさせられるものが少なくない。今回は実際に、最悪の展開になってしまった。

 かつ、その「何が」最悪であるかのポイントが、「政治的な説明」ではスルーされている。それを補いたいと思います。

 ちなみに「情をもって情を征する」といったことは、単に脳認知に照らしておかしな空想と前稿に記しました。

 京都アニメーション事件を巡って週刊文春に中村カズノリさんというカウンセラーの方の「怒りを因数分解する」テクニックが紹介されていました。

 参考までにリンクします(https://bunshun.jp/articles/-/13240)。

 興奮している人には何らかの意味で水をぶっかけて正気に戻す。感情の火に別の油を注いでまともな話になるわけがありません。

 アートとは、形にならない人間の情動ではなく、素材や音という客観的な実在によって表現する人智の方法、ars(https://en.wiktionary.org/wiki/ars)を謂うものです。