第5の太陽が滅びる日を延ばすための生贄
大聖堂の最も奥にある「王の祭壇」は、高さ25m(8階建てのビルに相当)で、カトリック教会の聖人たちの金色に彩られた彫刻がコテコテに満ち、“黄金の洞窟”と呼ばれている。国立宮殿は、元はアステカ皇帝の宮殿があった場所に、通りに沿って200m幅ものファサードが赤い火山岩を使って築かれた。
これ見よがしの絢爛たる2件の建造物だけで植民都市としての価値は十分に高いのだが、世界遺産の決め手は、1978年に大聖堂のすぐ隣からアステカ神殿“テンプロ・マヨール”が出土した事実だ。これにより失われた帝国とスペイン植民地が、目に見える形で繋がった。侵略者コルテスは、都テノチティトランの中心部、まさに聖地中の聖地である神殿ピラミッドを破壊し、その上に大聖堂を建設したのである。先住民をキリスト教化する第一歩だった。
テンプロ・マヨールの発掘は、私たちがアステカ文明の実体に初めて触れることができる“窓”になった。奥に向かってのこぎり型の凸凹になって現れた壁面は、古いピラミッドの上に新ピラミッドを重ねて、7回も増改築をくり返した歴史を物語っている。
そしてピラミッドの天辺に横たわり、ヘソの上に皿をのせ、、正面を見据えた赤と青の人型の像「チャックモール」があった。それは、16世紀のスペイン人による記録やアステカの絵文書に描かれていた通りで、生け贄などの供物を神々へと運ぶ使者の像である。チャックモールが両手に持つ皿に、石のナイフで切り裂いた胸から“生きたままの心臓”を引き抜き、置いたという。斬首された頭を並べる台座状の祭壇も見つかり、その壁からドクロの彫刻が整然と顔を出していた。テンプロ・マヨールの落成式では、ここに2万人もの生け贄が捧げられたらしい。
生け贄は、主に戦争で捕らえた捕虜だったが、時に名誉なふるまいとして若者や稚児が進んで身を捧げていた……とする説もある。なぜアステカ帝国は、現代人にはとても理解が及ばない、目を背けたくなるような血塗られた儀式を止められなかったのだろうか?
メキシコ国立人類学博物館に展示されている至宝「太陽の石」が、その謎に答えてくれる。1790年にソカロ広場の地中から発見され、直径3.6mの絵文字や記号が彫りこまれた円板は、アステカ人を導くカレンダーなのだ。ど真ん中に配された、ベロをだす太陽神トナティウは“第5の太陽”であり、そのベロは人身供犠に用いる石のナイフの形をしている。太陽神をとり囲むように、これまでに滅んだ4つの「太陽の世界」が示され、やがて第5の太陽も大地震で滅亡するとされた。
そのため滅亡の時を少しでも先に延ばそうと、宇宙の原動力である人間の血と心臓を神に供え、太陽に力を与えつづけたのだ。愚かな絵空事と一蹴するのはた易いが、時代を包みこむ観念は強く、ゆるぎない文明社会があった。
アステカ時代からの水郷地帯ソチミルコでは、葦や水草の筏を浮かべ、そこに湖底の泥をすくい上げて浮き畑にした。これが“チナンパ”という彼らが発明した農耕法で、泥は養分が多く究極のエコである。土留めのために植えられた樹木が、まるで水上の庭園を想わせる。ここで育てられたトウモロコシや南瓜・豆などの農作物が、水路を運ばれ、都テノチティトランで人々の食卓を飾ったのだ。
かつて南北に65kmもあったテスココ湖は、ほぼ消滅した。古代アステカの農業を支えたソチミルコは、今では平底舟でマリアッチ楽団の歌を楽しむ、メキシコ市民の観光地である。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)



