かつて相撲協会が採用していた優勝制度は、東西どちらの幕内力士が多く勝ったかという団体戦だった。写真は大正10年に5月場所で優勝した東軍の雄姿。旗手は横綱西ノ海
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相撲協会は今年で財団法人設立100周年を迎え、さまざまな記念事業を実施している。その中で世間の耳目を集めたのが10月7日、平安時代に宮中で行われた相撲節会を元に行われた「古式相撲」だった。現在の相撲にもつながる古式相撲はどのようなもので、それがどう発展して今の相撲の形となったのか。その歩みを振り返ってみよう。

(長山 聡:大相撲ジャーナル元編集長)

江戸時代・享保年間に現在の土俵とほぼ近い形が完成

 相撲節会は聖武天皇が天平6年(734)7月7日に、諸国の力士を集めて盛大な相撲大会を開催したことに始まる。節会とは元旦、端午、七夕、重陽など、季節の変わり目の行事を行う日のことで、相撲節会は豊作を占う国占いとして年中行事に制度化され、その後300年余りの長きにわたって続けられた。古来、相撲は格闘技としてだけではなく、五穀豊穣の祈願として継承されてきた歴史がある。

平安時代に300年以上も続いた相撲節会

 この節会相撲は年1回、1日だけのイベントで、当然一般の人が見られるようなものではなかったが、各地から招集された屈強な相撲人が左右に分かれ、約20番取り組んだ。

 現代の相撲との大きく異なる点は、土俵がなく、行司もいないことである。それでもこぶし突き、殴る、蹴るなどが禁止され、論(物言い)や練合(仕切り直し)の制度が生まれるなど、今に連なる相撲ルールの原点を見出すことができる。勝負は広い相撲場の中央で行われ、相手を投げ倒すか、手や膝をつかせることで決め、名称が違うが内掛けや外掛けのように今と同じ技が多数あった。

 力士たちは役相撲や順位を決めるために「内取(うちどり)」という稽古相撲を前日に行い、最強者の「最手(ほて)」と、次位の「脇」という役力士を左相撲、右相撲から1人ずつの計4人選んだ。武士の時代に入ると最手が大関に代わり、脇は関脇となった。

 その後どういう経緯で誕生したかがわかってはいないが、大関、関脇の次位に小結が加わり、江戸の番付では役力士は三役となった。

 本番では勝負が1番終わるごとに勝ち力士側の舞楽が演奏され近衛の役員が地上に矢を立てて勝敗をあきらかにした。取組が全部終わるとこの矢の合計数で左右いずれの陣営が勝ったかを決める。これがのちの大相撲の東西制につながっている。