「土俵はない、行司もいない」平安時代の古式相撲から現代へ、日本相撲協会100周年が語る国技の進化 かつて相撲協会が採用していた優勝制度は、東西どちらの幕内力士が多く勝ったかという団体戦だった。写真は大正10年に5月場所で優勝した東軍の雄姿。旗手は横綱西ノ海 (画像1/9) 平安時代に300年以上も続いた相撲節会 (画像2/9) 相撲を取る2人を観客や力士が取り囲んでおり、人方屋と呼ばれていた (画像3/9) 東西合併になって初めての番付(昭和2年1月場所) (画像4/9) 昭和3年1月場所からラジオ中継が始まり、仕切り制限時間が設けられた (画像5/9) 前頭6枚目天竜と前頭9枚目幡瀬川の仕切り。土俵が二重だったことがよくわかる(昭和5年5月場所) (画像6/9) 300年の伝統を破って部屋別総当たり制が実施された昭和40年1月場所。同じ二所一門の小結玉乃島が横綱大鵬を撃破した (画像7/9) 新入幕で初優勝を成し遂げた尊富士。実質的には史上初の快挙だった (画像8/9) 昭和22年5月場所から優勝決定戦制度が導入された。同場所は、4人でのプレーオフとなり、最後は横綱羽黒山が大関前田山を寄り切って優勝 (画像9/9) 「土俵はない、行司もいない」平安時代の古式相撲から現代へ、日本相撲協会100周年が語る国技の進化 この写真の記事を読む