この戦いは、元はといえば豊臣政権内での仲間割れであるから、戦後処理は当然、大坂城を中心として行われる。しかるのち、家康は伏見城を中心に政治活動を進め、慶長8年(1603)には朝廷から征夷大将軍に任じられた。この間、家康は一時的に江戸に帰ることはあったが、権力の所在地は伏見城だったといってよい。
伏見の桃山御陵。御陵奥の丘が伏見城(立入禁止)
一方、家康の後継者である秀忠は江戸城に在って、関東における徳川家の支配を固めていたし、徳川家臣たちの多くも江戸に屋敷を構えていた。つまり、権力の本体である家康は伏見、それを支える兵力と経済基盤は江戸、という二重体制だったわけだ。
結局、2年後の慶長10年(1605)、家康は秀忠に将軍職を譲り、ここに徳川政権は名実ともに「江戸幕府」となったわけだ。そして、家康本人は伏見と江戸を往復しながら駿府城の造営を進め、ほどなく駿府に居を定めるようになる。
駿府城。大御所となった家康は少年時代を過ごした駿府の地を晩年の居所に選んだ
つまり、われわれが「江戸幕府」と呼んでいる徳川政権は、江戸ではなく京・伏見で誕生したのである。実際、この時期の徳川政権を「伏見幕府」と呼ぶべきだ、と唱える研究者もある。家康が「将軍」として江戸城に居た期間はごく短く、政治的な本拠は伏見であり、大御所となってからは駿府が居城であった。(後編へつづく)






